南方録4

○露地ニ水うつ事、大凡に心得べからず、茶の湯の肝要、たヾこの三炭・三露にあり、
能ゝ巧者ならでハ、會ごとに思ふやうに成がたき也、
大概をいはヾ、客露地入の前一度、中立の前一度、會すミて客たゝるゝ時分一度、都合三度也、
昼、夜、三度の水、すべて意味ふかき事と心得べし。

名前だけ出ている「三炭」とペアの「三露」。

よくよく巧者ならでは、なのだが、客が来る前と中立の前と客の帰る前に一回ずつ水を打つというだけならどの辺が難しいか判りづらい。
水を打つ量なのか音なのか時間なのか乾燥工合なのか、良く考えると明晰ではないが、非常に含蓄深そうではある。

あと、やたら茶の湯のしきたりを深読みする歴史の最初は、この一文にあると言ってもよさそう。

後の水を立水といふ、
宗及などハ、立水心得がたし、何ぞや客をいねといふやういにあしらふ、これいかヾと被申よし、
傳聞、易へ尋申候へば、それ大に本意のちがひ也、
惣而わびの茶の湯、大てい初終の仕廻二時に過べからず、二時を過れば、朝會ハ昼の刻にさハり、昼會ハ夜會にさハる也、
其上、此わび小座敷に、平ぶるまひ、遊興のもてなしのやうに便ゝと居る作法にてなし、後のうすちやすみ時分、水をうたすべし、

宗及「最後の水は帰れって言ってるみたいでいやなんだけど」
利休「帰れって言ってんだよ」

大いに本意違わない。全然否定していないよ。

あと、同時に茶の湯は遊興のもてなしではない、と言っているんだよね。

わびてい主こひ茶のミか、うすちやまで仕廻て、又何事をかいたすべき、客も長物がたりやめて被歸事尤也、
其歸時分なるゆへ、露地をあらため、粗略なきやうに手水鉢にも、又水をたヽへ、草木にも水をうちなどすべし、
客も其ほどを考へて罷立也、亭主露地口まで打送りて暇乞申べき也と被申し、

「客も長物語やめて」…つまり亭主は帰って欲しい側。客は長物語してでも残りたい側。
そういう定義の元、プログレッシブな茶の湯には長物語は必要ない、とばっさり切り捨てているのだ。

つまり茶の湯はもてなしでも、会話を楽しむものでもない。
おそろしくストイックな態度である。