南方録11

○掛物ほど第一の道具ハなし、客・亭主共ニ茶の湯三昧の一心得道の物也、墨跡を第一とす、

超有名な一節である。…もしかすると現代の茶の湯をこんな風にした一節である。

天正茶の湯は、必ずしも墨跡を掛けるとは決まっていなかった。
墨跡は愛好されたが、印加状とかの堅苦しい横物で、よっぽどの名物で、機会も限られていた。

この一節がなければ、茶の湯では必ず床の間に掛軸を掛ける、とはならなかったかもしれない。

其文句の心をうやまひ、筆者・道人・祖師の徳を賞翫する也、俗筆の物ハかくる事なき也、されども哥人の道哥など書きたるを被掛る事あり、

書いた人を敬う為に掛けるので、俗人の筆は掛けない。でも歌は掛けることがある。

ここの部分、あいまいかつ、歯切れが悪い。

四疊半にも成てハ又一向の草菴とハ心もち違ふ、能々分別すべし、

四畳半と小間では違う、と書いてあるが具体性はない。つまりこちらの判断に任されている。

佛語・祖語と、筆者の徳と、かね用るを第一とし、重寶の一軸也、
又筆者ハ大徳といふにハあらねども、佛語・祖語を用いてかくるを第二とす、

徳が無い筆者でも、文句がよければいい、と書いている。ぬるい。

繪も筆者によりて掛る也、唐僧の繪に佛祖の像、人形繪多し、
人によりて持佛堂のやう也とてかけぬ人あり、一向の事也、一段賞翫してかくべし、
皈依あるべき事、別而也と易の給ふ、

この文章、有名な「掛軸第一主義」を唱ったものだが、よく読むとぬるいのである。

「このグレードの僧侶」というのを規定せず、徳がない筆者でも許している。

そういう意味で大徳寺や家元の掛軸商売を支えたのも、この文章かもしれない。
これが「大僧正以上でないと掛けちゃ駄目」とか書いてあったら、これらの人はどうしたんだろう?