箒のあと 二百七十八 中京の茶風一變

大正癸亥の大震火災は、啻に羅災地のみならず、遥に隔たりたる名古屋、即ち中京の茶界にまで思ひ寄らざる影響を及ぼした。
其次第は、今や茶道の第一人者と言はれている益田鈍翁が震災直後家族の一部を引き具して、暫時中京に避難して居た際、同地方の數寄者連は、鈍翁慰安の爲め、争ふて茶會を催して、之を招請する者多く、翁は引張紙鳶と爲つて、一日五六回の茶會に出席した事さへあつたと云ふ。

その頃、三渓三渓園を避難所に解放、奥さんは船をチャーターし森川如春庵の所に乗り込み、蔵の米を供出してもらっていた。

うむ。鈍翁全然偉くないな。


まぁお茶に招かれたら返礼もあるってもので:

斯くて物情の漸く鎭定するや、鈍翁は、幸に無難であつた品川御殿山、相州小田原、双方の寶蔵より、夫れ/゛\茶器を取寄せて返茶を催し、片端より中京の數寄者を招待したので、同地方の人々は、此時より始めて東京風の茶時に接觸したのである。

では、どんなのが中京の茶だったかと言うと:

此頃まで中京の茶風如何と云ふに、多くは同地に勢力ある久田流乃至松尾流等の宗匠の指導を受け、掛物と云へば、此等流祖の筆蹟を珍重し、(後略)

と、割としょぼかった、と箒庵は言う。


ここでの疑問は、森川如春庵の存在である。

如春庵がこれ以前で名物道具のお茶をしていないわけがない。

これは中京の茶に影響を与えなかった、というのだろうか?
それとも如春庵は中京の茶人を相手にしていなかったのだろうか?

謎である。