茶過ギテ素麺アリ

後段。

後段とは、お茶事が終わってから、別室で宴会することである。


ところが。

松屋会記。一番最初の会にこうある。

天文二年
四聖坊ヘ
(略)
茶過ギテ素麺アリ

初期茶道の後段の記述は、豪商の酒を使った宴会でなく、素麺のみでシメ。しかも豪商の主催とかでなく、東大寺四聖坊の会である。

ええ?それって宴会っぽくないじゃん…。


では松屋久政会記で「後段」に関する記述と、後段かに関係なく「酒」に関する記述を調べてみる。

年号 西暦 後段率 酒率
天文2年 1533年 100% 0%
天文5年 1536年 0% 0%
天文6年 1537年 0% 0%
天文8年 1539年 0% 0%
天文13年 1544年 14% 0%
天文21年 1552年 66% 0%
弘治2年 1556年 23% 0%
弘治3年 1556年 6% 0%
永録元年 1558年 66% 0%
永録2年 1559年 38% 38%
永録3年 1560年 75% 0%
永録4年 1561年 72% 11%
永録5年 1562年 100% 0%
永録6年 1563年 70% 20%
永録7年 1564年 66% 0%
永録8年 1565年 75% 75%
永録10年 1567年 12% 25%
永録11年 1568年 7% 11%
永録12年 1569年 42% 0%
元龜元年 1570年 0% 0%
元龜二年 1571年 50% 0%
元龜三年 1572年 66% 11%
天正元年 1573年 33% 0%
天正二年 1574年 0% 0%
天正三年 1575年 100% 0%
天正四年 1576年 33% 0%
天正五年 1577年 0% 0%
天正六年 1578年 16% 0%
天正七年 1579年 26% 5%
天正八年 1580年 0% 0%
天正九年 1581年 10% 0%
天正十年 1582年 0% 0%
天正十一年 1583年 0% 14%
天正十二年 1584年 0% 5%
天正十三年 1585年 0% 0%
天正十四年 1586年 0% 5%
天正十五年 1587年 0% 0%
天正十六年 1588年 0% 0%
天正十七年 1589年 0% 0%
天正十八年 1590年 9% 0%
天正十九年 1591年 0% 0%
文禄元年 1592年 0% 0%
文禄二年 1593年 0% 0%
文禄三年 1594年 0% 0%
文禄四年 1595年 0% 50%
慶長元年 1595年 0% 0%

※但し会記の「会アリ」が後段を意味する場合はこの集計はかなり数字が変わると思う。


後段は天文年間からあるが、永禄年間に増える。

永禄年間、やはり酒に関する記述が増える。

永禄年間の酒に関する記述は、酒が出ることが特別だったかの様な印象:

永禄二年 四月十八日 堺天王寺道叱
(中略)
薄茶ノ後ニ、トリ肴ニテ酒アリ、

永禄四年 七月廿五日 四聖坊
(中略)
茶過テ、酒アリ

んで天正年間頃には酒があるのが当然の様な書き方。

天正七年 六月十一日朝
(中略)
酒ツキナンバンモノ

「酒注ぎ南蛮物」とだけ書いてあるのは「酒が当然」という意識の現れだと思う。


ちなみにのちの久重会記の最後あたりになると

慶安三年
(中略)
後ニ、シヨメン 米ノコト山ノ芋ニテスル、吸物近江ブナ 肴色々

とこれはもう豪華な宴会。


整理しよう。


天文年間(1530年代)。
後段に酒は出ず、素麺とかでさらっとおしまいだった。
もしかすると茶事に酒は出なかったかもしれない。


永禄年間(1560年代)。
後段に酒が出る様になる。
あいかわらず素麺とかも出る。
両方出るのはあまりない。
なんとなく日本酒の普及一般化と関係があるかも、とか思う。


ところが天正10年(1582年)以降、後段の記述が存在しなくなる。

おそらく、茶の湯の流行がストイックになっていって、「後段?カッコワルイ」みたいな状態になったんではなかろうか?


んで、時が過ぎて慶安年間(1650年代)。大名茶の贅沢の中で後段は復活したが、「素麺でさっぱり」という文化は忘れられ、現代でも思い付く様な宴会式の後段が生まれたのではないか?とか思った。