南坊録の研究4 利休の言葉 ふり

万貫屋宛傳書より。

朝數寄は手水使はず、只手水鉢をつくばひよく見て、其まま立つて行く事よし。
是は今朝手水使ひて、即ち間もなく候へば、今更使ふに及ばずと也。

席入りの際に手水を使うか、慶長八九年まで朝会には手水を使わなかった、という話は以前書いた。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20110404

朝会では家で手水を使って来たからいい、ってそれだけの事だった。

しかし著者は更に論旨を展開する。

これと同じことは、紹鴎が生島助之丞に與えた傳書にも見られる。
即ち、「棗中次によらず、土の物何れの茶入にても、ふくさにてふく時は、まね斗にてまはなぬ事よし。總てさうじは前かどより念を入、よくふきこめたる物なれば、今更ふくに及ばね共、客人の時宜にと、又當座の品までにてふく事なれば、をしつけをしまはして、いやしくふくべきことなし」とあるのがそれである。
(中略)
清める必要があつて實際にふくのはいやしく、たヾ形ばかりをすることが品がよいのである。

なぜ茶道では帛紗で器物を清めるか、と言う事に関し簡にして要を得た答えじゃないかと思う。