茶の湯 作法とたて方2 茶の湯の動きはなぜ美しいか

お茶の点て方について、

茶の湯というと、かたくるしい、型式ばったお作法と考えている人が多い様です。
(中略)
けれども、その作法や動きには、どれ一つ型式的なものはなく、一つ一つが非常に合理的にできているのです。

こういう合理論というのは結構聞くが、私はあまりそうは思わない。

理由は二つ。

茶の湯の合理」が対象とするの理の中に「陰陽五行」とかの、現代では合理的と考えられないものが含まれる事。

そして、「約束事」という理由で行われる、理で説明の付かない手続きが存在するからである。


道具の配置も無駄がない、と著者は言う。

「むだのない構成」といいましたが、風炉を中心にしたおのおのの道具の位置は、それに向き合って座る亭主の扱いやすいように配置されていることを意味します。

そして動きにも無駄がないと。

一つの動作が次の動作を生み、その動作がそのまた次の動作につながります。必要な動きが、そのまま美しい動きになっているのです。

例えば、バーテンダーの動きには無駄が無く、道具もカクテルを作りやすくできていると思う。

だからと言って、バーテンダーの動き自体は茶の湯に比べれば、きまりきった動きを規定されてはいない(計量面ではむしろ厳密かもしれないが)。


バーテンダーに限らない。熟練の職人であれば、無駄の無い道具配置を準備し、流れるように動けて当り前だという気がする。

だから、私は、茶の湯の所作が美しい事自体に特殊性がある、という考え方はできない。


だが、型にはめて教えることで、稽古事での数十回程度の反復でそれなりに美しい動きができる様になる事には大きな意味があるかもしれないとは思っている。