近世茶道史10 わび茶の再編

途中に禁中・公家茶の展開として、槐記の合理性について語る第2節があるのだがオミット。

第3節は一燈と如心斎の七事式の話が中心。

ただ注意しておかねばならないのは、この七事式の創案に際しては、かなりの抵抗がみられたことである。
『不白筆記』によれば
一、古よりケ様事なく稽古も済タルニ、今ケ様之事なくてハならぬと、或ハ新法なとヽ人とがめ申候
とみえ、また横井談所は「是を始められしニ、京にても色々評判し、古き茶人ハ甚嘲りたる事也」と、当時の評価を記している。

七事式、当時は馬鹿にされていたわけだが、この頃の茶の湯は既に旧守的なものになっていた、と言えなくもないか。

では何故、如心斎らはこのような批判をあびてなお再編をすすめなければならなかったのだろうか。
(中略)
ややもすれば、それまでの伝統をなしくずしにしてしまう危険性をもはらんでいたといってもよい。それにもかかわらず「七事式」の創案が決断されたのは、一つにはすでに大名茶道における基盤を確立していた片桐石州の茶が、わび茶への著しい傾斜をみせていたことを原因としてもよいであろう。
(中略)
「七事式」は、単に増大した茶道人口に対応するのみならず、それまでの小間を主体としたわび茶を、武家茶道をも包括するための広間における茶の中心的な要素として創案されたことをあわせて考えておく必要があろう。

茶道人口が増えた事で、先生一人あたりの生徒が増えた。
小間のマンツーマンでは生徒を捌きれなくなった。
…これはいいだろう。

しかし、七事式をもって広間の茶を修めたとは言いがたい気がする。でも、茶事方として武家茶道の一角に組み込まれていた千家としては、広間への対応は必要だったというのは理解できなくもないな。