若き日の利休2 道陳への師事
十六歳にして松屋を招く會をしてゐる利休は、十七歳にして、堺の人北向道陳の弟子となった。
京の与四郎が16歳の利休なのだとしたら、まともな人に師事していないヤング利休が松屋ほどの茶人を招く、という事に誰も疑問を持たなかったんだろうか?
それはともかく、若き輿四郎は、十七歳にして道陳に、十九歳にして今の紹鴎を師とするやうになつた。
この二人の師について、自らが語つてゐる言葉によると、道陳からは、書院臺子の茶を學び、小座敷のことは、紹鴎と相談して定めたとある。
書院臺子の茶といふのは、東山の時代以來傳へられてゐる正統な式のことで、小座敷の茶は、それを簡略にし、小さい座敷に相應するやうにすることであつた。
その相違は、自ら若き輿四郎がなした修行の發展を示してゐるが、後に紹鴎につく時には、習ふといふよりも、共に工夫する状態であつたのを注意しなければならない。
利休と紹鴎が草庵の茶の湯を発展させた…というのはロマンチックな話なんだけど、紹鴎存命の頃の利休はさほど草庵の茶を志向していないし、紹鴎はもっとそう。
利休が茶の湯をリードしていると思えるのは天正10年以降の話で、それ以前に順々茶の湯が侘びていったのは、自然な社会の流行とか指向だと思う。
なんでもかんでも利休に結び付けなくてもいいんじゃなかろうか。