普齋書入便蒙鈔16 第九 茶立てる時の事

茶道便蒙鈔の記述:

一 濃茶の跡にて湯を好む事あり
當代ハ濃茶を呑仕廻是に湯を入御出しあれと申時亭主も心得是にて湯を入出す近此むさき事也。
但茶を大切の心得にて時宜に湯を好むか全ク其心得にハあらず相違なり
茶の湯の水の念入りたるを賞翫せんために湯を好む也
それにより亭主よりも只うすちやまゐり候へと申也
是も茶をおしまず薄ちやを立候
半とにハあらず水あしく湯まいられましきとの心得也
是非と好ミ候時は濃茶の跡能くすゝぎふきて又湯にてすゝぎふかず湯を汲入能かげんにうめ合出す也

濃茶の後、湯を要求する事がある。
最近は濃茶を終えた茶碗にお湯を入れてくれと言われ、主人が湯を入れて出す様になっているが大変下品な事だ。
これは茶碗に残った茶を大事にする心から出たと言われているがそれは違う。
本当は水の素晴らしさを鑑賞するためだ。
それに対し主人は薄茶出しますよと答える。
お茶を惜しまずちゃんと薄茶を立てること。
水が悪く湯を出せないということのない様にする心得だ。
是非と言われた時は濃茶の汚れはよく濯いで拭いてからもう一度湯で濯ぎ、拭かずに湯を入れいい感じに埋めて出すとよい。

…。

すすぎを呑むことの是非は江戸時代初期からはじまっていたが、当然この頃も議論があったっぽい。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20110407

ここでは宗偏は「本来は水の味を確認する事が目的」と言っている。

普齋の朱書:

何茂左樣にも有へけれと深き心の御座候よく/\習へし
俄に用事ありて古人うす茶のひまなく小さしきヲも立申事の有し時薄茶なくてハまことに茶湯の席半分に御座候
儘はやく立へきために湯に水もむめすゝきの折ふしの湯をこのまれ申候
むさきとあれハとかうハ申かたし
濃茶もすい茶のうえなれハさやうにも有ましく候
名水の事は勿論なれとも水は茶にてこそよくわかちしれ侍れこゝろ入有事也

まーそーゆー感じではあるんだけどほんとのトコは先生に習おうね。
突然の急用で薄茶を呑む暇がない時ってあるじゃん。それって中途半端な気分になるよね。
そういう時に薄茶の代わりに濯ぎを呑ませてくれって言われるんだけど、それをキモいとか言われると言いにくいじゃん。
濃茶も廻し呑みなんだからまぁいいじゃん。
名水とか理由に挙げてるけど水のよしあしはお茶のむときが一番判るんだしねぇ。

…。


普齋は濯ぎを呑む事に関してはやや同情的。
忙しい人にはそういう事もある、と言っている。

時により茶の湯原理主義になったり現実主義者になったり、宗偏に対し難癖つけたいだけにも思える。意外とロックじゃないぞ、普齋。