水戸茶道史考7 山水双宜の楽寿楼

哀公の次が義公に次ぐ傑物とされる烈公斎昭である。
(中略)
公は弘道館記碑文によって水戸学上に重要な地位を占めているが、茶道においても偕楽園内に好文亭何陋庵をつくり茶説茶對を物せることによって水戸茶道史上に大きな地位を占めている。

ということで話は飛んで幕末の徳川斎昭の話。

園の一隅湖に面して三階建数寄屋二百八坪の建物をつくり、梅の異名好文木に因んで好文亭と名づけ、三階を楽寿楼と名づけた。

ケーズデンキスタジアムヘ行く途中,白鳥の糞に注意して進まなきゃいけない千波湖畔にあるのは休憩所の好文茶屋であって好文亭ではない。でも好文茶屋にもこっそり茶室あるよなぁ…。

ま私が水戸に行ったのは地震直後だったので好文亭とかしまっていた気がする。残念である。

好文亭内茶席何陋庵は圍風に亭の北部に北向きにつくられている。好文亭が格別奇無く巧み無き物であるのに応じ何陋庵も簡素質朴で、是といって変わった處もない四畳半の草庵風の席である。
ただ躙口が無く織部口すなわち貴人口で普通の障子が二枚立ててあるのが如何にも殿様の使う席らしいことを思わせる。

でもまぁ見るほどの内容ではないということだろうか。


わざわざ水戸に大名の来客などなかろうから、家臣へ倹約を勧めるためにもあまり豪勢な茶室は作らなかったんじゃろうね。