茶会記の風景17 酒井宗雅

酒井宗雅に関して、弟抱一がどうこうはどうでもいい。この頃の茶風がやはり主眼になるべきであろう。

茶器については和物が圧倒的に多いことのほかに、薄茶器の種類が豊富であることや、「覚々斎書付利休小棗」の表現が注目される。
とくに「覚々斎書付」とは、いわば“町方”の茶人の極め書きの意味であるから、従来の大名茶の湯にはけっして登場しなかった語句。
(略)
不昧に強い感化を受けた宗雅は『贅言』にある不昧の“道具見世茶湯”批判をそのまま受け入れて、高価な唐物よりは手頃な値段の和物を求めたとも考えられる。

宗雅が、大名茶の湯を離れた価値観を持っていた、という点は同意できる。

しかしながら、「町方の家元の権威を受け入れてたか」というと、それはどうだろう?

江戸も中期となり、不昧が千家の腐敗を嘆いていた頃である。

町方の、しかもそこそこの道具であれば、全てといっていいほど千家家元の極書きがついていた可能性が有る。

あるいは、宗雅の道具入手ルートが千家系の茶人か千家に縁のある茶商が噛んでいたらそうなってもおかしくはない。

宗雅自身は不昧流で、おそらく姫路藩の茶堂達は石州流だろうが、そっちの縁故から入って来る道具だとどうしても大名道具の方向性から逸脱できなそうだもん。

そういう市井の茶人/商人の存在が必要となると思うんだよね。