詩集利休4 古田織部

古田織部


織部茶碗を前にする時には
義しい叛骨が威儀を正して坐つてゐる


寂として 雲は白く遠く
この岸に 人影もない
織部竹むらがそよいでゐる
どこかで聲がしてゐる
誰が織部を探してゐるのか


噫 上玄から雲際へ 相貌が歩むのを見た
姿相が 懸るのを見た
蒼い崇い世界が頭上に一振の劍のごとく在る


しづかな日射しではないか
小雀が遊んでゐる


いつも會ふ花が 開いてゐる
東方の心が 遊ぶ
國原のま風が 吹く


織部は 嵐の中の もう一つの嵐だ
海■*1の中の王國だ
紅の中の夕榮えだ


鶴は單なる鳥ではなかつた
行動の線であつた
魚介はただの魚ではなかつた
心緒の點であつた
玄黄の大きい眠らぬ目を見た
乾坤のさびしいが 高い橋を渡つた
七つの大海洋を 撹拌する大きい手を見た


閑庭に 逕が一つ
石と石の間には よろぼし影が去る
織部よ 誰か読んでゐる
誰かがさがしてゐる

織部茶碗」の連。
いきなり対象の名前を呼んじゃう、というのは如何なものか。ださい。
ただし「義しい叛骨」とは言い得て妙である。「威儀を正して坐つてゐる」はもしかして現代同様、織部流は式正として知られていたのか?

「寂として」の連。
淀川で利休を見送ったエピソードが下敷なのかもしれないが、それにしては妙だ。
そこに利休も三斎もいないからである。

「噫」の連。
杜甫の「諸葛大名垂宇宙」の様なものが書きたかったのかも。
だがそこまで壮大にはならなかったか。

織部は 嵐の中の」の連。もう織部の名を連呼する事に抵抗感がなくなっている著者。

「閑庭に」の連。
最後「誰かがさがしてゐる」をリフレインさせて、織部の不在を強調するのはよかったんじゃないか←偉そう

*1:さんずいに區。読みは海とあわせて「うたかた」