閑夜茶話3 千利休

利休の生涯。

紹鴎は宗易が茶事に達したる由、信長公に薦めければ、則五百石を賜はりぬ。
元龜年中、宗易は正親町院の勅命に依て茶器七品を献ぜしが、兼て法印法眼にも相成べきとの事なれども、休之を願はず。居士號の望みありければ、此時勅命にて利休宗易居士と稱すべきを許さる。
是に於て、中世茶事の祖とす。
後秀吉公に仕へ、三千石を領し、氏を千と改め、當時の大小名諸役人門人にあらずと云ふ事なし。

元亀年間に朝廷に出入りしている、というパターンだと、信長に居士号を世話してもらっている事になる。
更に、利休が千という姓をもらったのは、秀吉に仕えてから。
つまり、参内した時点では田中宗易で、参内後田中利休、秀吉により千利休になった、というわけか…なんだかなぁ。

又古渓和尚と交り深く後弟子となり禪を學びぬ。
後己が木像を作り拂子をもたせて大徳寺金毛閣に置き、抛筌斎利休居士と號せしを、秀吉公聞て大に怒り、彼れ茶事に巧なるを以て信長に仕へ剰へ朝廷より居士號を賜はり、今我に仕へ三千石を領す。然るに奉行役人にも届けずして自ら木像を造り我儘に高閣に置く事言語道斷なりとて天正十八年十一月十八日より堺へ蟄居仰付られ、翌年二月二十八日死を賜ふ。

利休が自発的に木像を造ったことになっているのがニントモカントモ。

また、石田三成との確執とかは全然視野にないのもおもしろい。三成は江戸時代通じての悪役なわけだから、利休持ち上げるのに使い易いと思うんだけど…

是より先き秀吉公利休の娘を懇望ありしかども休強て辭退せられ娘も已に自殺す。
命に背くの御憤り少からず。
此外にも彼是事かさなりて休七十歳にて切腹なり。
右の木像は久しく舟岡山に捨てありしを宗旦の子宗拙尋ね出す。
今利休堂に安置する木像の首是なり

え?首斬られて晒された利休像って残ってるの?まさかぁ…と思って調べてみたら

http://www.urasenke.or.jp/textc/chashitu/onsodo.html

これか?マジかよ。

でもどんな像か判んねーな、この情報だと。