茶道文化論集32 松屋の衰退

松屋三名物は、幕末に松屋から手離された。
幸いにも松屋肩衝根津美術館の所蔵となって現存するが、鷺絵と存星盆の両種は散逸してしまった。

ということで、松屋肩衝の流出について。

松屋肩衝は幕末に大坂の道具商に渡った。
いろいろと経路が説かれるが、とかくの憶測といえる。
ここに新資料を紹介する。
奈良奉行川路聖謨の日記である『寧府記事』の嘉永五年(一八四八)二月の条に見える。

三日 晴 (京都)所司代より内々、伴金左衛門を以、東大寺神人土門源三郎義、肩衝と申茶入、所持いたし居哉との聞合する故、穿鑿せしに、右は足利将軍家義政公より南都称名寺の僧珠光といふもの拝領し、夫より和州古市の城主播州法印といふものへ伝へ、夫より源三郎久行といふ相伝して、近頃まで御老中方等、南都御巡見之節は入御覧来り候処、当源三郎殯宮に商売払度由奉行所に届出、南都之名物に付、東大寺に而世話いたし、取留置候様、奉行所に而声懸遣しけれ共、中々大金ニ而及不手不申候由、断に付、左候はヾ存寄次第と奉行所より申達候品に有之候処、此の節は大坂の町人淡路屋亀五郎といふものを相頼、同所瓦屋町炭屋孫七江八百両之質に入有之候処、此節過分之価に買受候もの有之、源三郎懸合候得共、不差戻と之取沙汰相分ル、右之様子にては、いづれ千両以上之相場とみえたり、刀剣にも甲冑にも居、一品にて千両に望人あることも、八百両の質にいるヽこともきかず、可難事也。

  1. 松屋さんが、困って売出しに出ることを奈良奉行所へ申し出た。
  2. 奉行所は、奈良の観光資源でもあるので、奈良内で売り先を探させるよう東大寺に命じた。
  3. 無理だったので、奈良奉行所も流出を認めた。
  4. 松屋さんは大坂の淡路屋経由で売出を試みた。
  5. 炭屋に八百両で質に入った。
  6. 炭屋がより高額(おそらく千両以上)で他に売ろうとしたので、松屋さんが差額への権利を主張したが無理だった。

ってことかな?

んで、所有権が移ったなら、わざわざ松屋に見に行く必要が無いので、京都の所司代から照会が行ったと。

結局誰が買ったのかは不明なわけだが。

面白いのは、松屋名物が観光資源の様に扱われていること。いまだに幕府の偉い人が見に来ること、でもその謝礼では暮らしていけないこと。そして、高額物品過ぎて販売に困る様な品に関与しているのが町人だらけなこと。

嘉永5年はペリーの来る前年。

あと50年待てば明治中期の売立でもっと儲かったし、鷺絵と存星盆も散逸しなかったのではなかろうか?