家庭料理講義録十月号紅葉ノ巻3

本書で扱っている料理、それも懐石に関しては現代となんら変わるところがないといっていい。むしろ冷蔵とか難しかった時代によくぞここまで刺身が出せるなぁと感心&心配するところもある。

そんな中で懐石の八寸の紹介から:

鱚を三枚におろし、薄身をすき取り、水洗ひして鹽を撒り、皿か盃にて葛粉を着けたる板の上に載せ、叩きつけて、金網に載せ、遠火にて兩面を炙る心持で燒くのです。
これを鱚煎餅と呼び、一人前一枚の割合とします。
次ぎに百合の大なるものを選び、一枚宛剥ぎて、その周圍の端の所を庖丁にて取り、鍋に湯を煮立たせ、其れに鹽を入れた中に、一人前百合一個宛の割合にて入れ、潰さぬ樣に茹でゝ、生揚と云つて鍋から直ぐに金網杓子にて笊に掬ひ上げ、其れを圖の如く、鱚煎餅を奧に盛りて、百合を前に盛るのであります。

普通においしそうである。
家庭でこんなことをしていたんだろうか?という疑問はあるが。

問題は次のセンテンスで:

此の八寸の料理は、普通の會席には餘り用ゐられませぬが、茶席などになると、主人が心をこめて客をもてなす意志を表すものになりますから、總ての儀式料理にも、本式になると用ゐられるのであります。
故に器物も改まつた儀式になりては三方を用ゐますが、此の席では白木の八寸の盆に、奉書を二枚重ねて敷き、其の上に圖に示す如く料理を盛ります。

八寸なんて亭主と酒の応酬をするためだけのおつまみセットじゃん。
茶席でなければ意味がないし、「儀式料理」で「三方」に載せるようなものじゃなかろう。この頃なにやら八寸の神格化が行なわれていた感じ。
南坊録が神格化されていた時代なので、南坊録=懐石=禅みたいな連想が働いていたのかもしれない。