茶室考9

壁の話。

珠光が四畳半を作った時代から紹鴎の四畳半に至る迄は、室町末期頃の書院造と同様に壁には白の鳥の子紙を張ったものであるが、これが堺の利休四畳半になると床の間の壁だけが白の鳥の子張になり、他のところは土壁になって来た模様で、草庵の風が起る様になってからのことである。
茶室の壁は、斯様に紙張から土壁と変わって来たわけで(略)

銀閣寺東求堂同仁斎って土壁に見えるんだけど…ちがうんですかね?

腰張について「茶道正伝集」は、
「こし張は窓毎の下、押並て湊紙也。」
「道幸のたてつめの柱より床の中の柱まての間、押廻して白紀奉書紙を八寸二分の高さにして一色張也、但紙の合めハ一分つよし。」

ここから判るものはなにか?

壁に腰張する方法?いや違う。

茶道正伝集は、著者の愛読する秘蔵書で、寛文三年(1663)の奥書がある織田家秘蔵書、だそうである。

つまり、利休死後60年ぐらいの時点ですでに、茶人ってのはめんどくさくってうるさいルールを振りかざしていたってことですよ。