茶室考10
畳に関して。
本書は多くの畳の故実を紹介している。
明和元年(1768)の「和席編」より。
「大目畳の濫觴を考るに、茶湯奥儀抄に曰、
或人宗易を呼び茶会有し時、手前見へざる故、下に下地窓をあけ大目を切て、
落しかけを入中柱の間をあけて六尺三寸の畳を、さきを一尺五寸七分半除て残るを大目畳と号け喫茶有りしを宗易能作意なりと感せられしと也。
然れは則大目畳の長さは四尺七寸二分半也。
幅は三尺一寸五分是京間の定幅なり。」
茶湯奥儀抄は元禄11年の刊行。引用の引用か!という私はその引用。
元禄時代の茶人が親しんだのはおそらく燕庵形式。彼らはそれの席以前はどんな席でどんなお茶をしていたと思っていたのだろう?
この意見だと、台目切は風炉先窓の明るさで点前座を照らすために作られたということなのかな?利休の頃は中柱の袖壁が視線を塞ぎ、丸畳の果てに灯り窓があって暗い。そんな席を想定していたようにも思える。
なんで普通の明るい四畳半でお茶をしていたと思わなかったんだろう?
「喫茶活法奥儀集」によると、
「床のさし表とは、さし初の方を申候也、床に諸道具を荘時、床かまちの方より畳の目数をかそへて荘置候故也。
床前の畳、客畳、踏込畳、道具畳はいづれもさし表の方を座中へなして敷候也。
然は地敷居際は捨に仕候也。(略)
畳はいぐさを織った畳表を畳床に縫いつけたもの。
畳のサイズはある程度の標準化がされているが、畳表の織り方の規格はあるようでない。
したがって畳表が畳の両端できれいに織目が揃っているとは限らない。
そこで、織り初め側を客に見える/規準になる側において、見えない側を捨て寸にするのである。
でもそのまちまちの畳目を、物を置く際の目安に使ってしまう。
ここからわかるのは二つ。
昔の茶人は畳の目幅をものさしにしていたイコール南坊録の曲尺割みたいな比例配分方式は使っていなかった。また、絶対的な位置尺度は求めておらず、けっこうおおらかだった…ということだと思う。