数寄空間を求めて

西和夫/学芸出版社/1983年。

サブタイトルは「寛永サロンの建築と庭」。弱冠妄想混じりで寛永の建築ロマンを語る本である。

序章は「後水尾院の八ツ橋」。

この橋は何のために作られたのだろう。幅三間弱、長さ七十間ほどの水路に、八つ架かっている。
ひとつひとつ、みなデザインが違う。名前は、杉桁橋・すちかひそり橋・くすのき橋・杉大桁橋・古舟板橋・すのこ橋・杉板橋・丸太違橋。総称して「八ツ橋」と呼んでいる。
「八ツ橋」の作られた場所、それは京都、仙洞御所の一画である。時代は寛永十二年(一六三五)ごろ、そして作者はおそらく小堀遠州

仙洞御所にそんな素材色々の橋があったのか?出典はどこ?と思うと:

この「八ツ橋」は、宮内庁書陵部に伝えられた仙洞御所の設計図に描かれている。

宮内庁か…信憑性高そう。

幅三間弱(五・五メートルほど)、両側を築地塀で囲まれた長さ七十間ほど(九十メートル余)の水路に架かるこの風情豊かな「八つ橋」を、どのように楽しんだのだろうか?
(略)
そこで、勝手な推測を試みる。
橋にたたずみ、水音に耳をかたむけながら水の動きを眺め、水面に映る雲を楽しむ、水に映る橋の形、橋の作るさまざまな陰影が、時刻により、あるいは場所により、さまざまに変化する。小鳥が遊びにきたかもしれない。
王朝時代の曲水の宴のような行事が用意されていたかもしれない。

著者は建築の人なのに「橋の素材を楽しむ」というのが入っていない不思議。

後水尾院は水無瀬神宮に灯心亭を下賜した人である。素材より混ぜが大好きなだけなんちゃうやろうか?

八橋といえば、思い出されるのは伊勢物語在原業平の「東下り」である。
(略)
後水尾院仙洞御所の「八ツ橋」は文字通り八つの橋であって、業平には関係ないかもしれぬ。だが、後水尾院にしても小堀遠州にしても、この物語を知らないはずはない。
橋を渡りながら仮想の「旅をしぞ思」ったのかもしれないのである。

伊勢物語の八橋も文字通り八つの橋であって、我々が想像する庭に作られる八つ橋とは違うものの筈である。

むしろ庭にある八つ橋を見て伊勢物語の八橋に同定する方が不自然なくらい違うもののはずなんだけど…。

菓子・料理・茶を楽しみ、船遊びをし、漢詩・和歌・謡に興じる。その場所は、書院や茶室だけでなく、
庭の池、中島なども使う。建築はもとより、その建築を包み込む庭全体が舞台である。その舞台を、今、数寄空間と名づけよう。

つまり寛永のサロンの、その舞台となる場所について考察したのが本書なのである。