日本茶の湯文化史の新研究6

石州の将軍茶道師範の名が定着した最も強い要素は、「石州三百箇条」の制定によるものであろう。
(略)
この書の成立が寛文五年(一六六五)の将軍への献茶より、むしろ柳営の茶を規定し、師範と称されたという定説の根本的な理由となっている。

というわけで石州三百箇条。

石州が三百箇条を作り将軍に提出した/そこで徳川幕府茶の湯が規定された/石州流が各藩にも広まった、という流れ。
これは本当か?という話。

それは「石州三百箇条」の序文を正しく読めば自ずから諒解されるであろう。

ということで序文…ただしくは茶道古典全集版の序文を解析する。

「茶道古典全集」所収の「石州三百ヶ条」(今泉文庫本、国立国会図書館蔵)には、怡渓和尚の高弟無住庵了阿の序文がある。この序文は、茶道の奥儀は文字で表現できるものではないが、

  利休・道安・桑山左近より片桐石見相伝へし事を忘れましきために、時にふれ、業随ひ、心にうかふ事を記し、石見、覚に致され候也

といっている。
(略)
石州は、これを三十九葉の懐紙に認めて家綱に献上したと伝えられている。
しかし、本文の量からそれは考えられず、むしろ日頃の覚書が何百枚かの懐紙に書き残されていたと考える方が自然であろう。
だから序文にも「前後次第も是なく候」とあって、石州の思い出すままのメモであるから順序は整っていないと断っているのである。

あーーー。こういう分析してなかったなぁ。

第一に本書が(略)石州の心覚えであったことである。
(略)
その内容が優れていることは承知できるが、どうしても「将軍に進上した柳営茶の規格」といえる体裁をもっていたとは考えられないのである。

メモの譲渡を偉い人に所望されたのならしかたないが「柳営の茶を規定」するほどのものを献上するならそれなりの理論書としての体裁は必要か。
あの山上宗二記も章立てはしっかりしてるもんなぁ。

第二に、本書は「宗関死去以後、桑山可斎方に有之」というのであって、このメモ類が石州の没後にも将軍に進上されたわけではない。

少なくとも生前に献上したわけではないということか。

第三に、これらのことを「書物になり候事を深くいましめ被申」た石州の意に反して、「石州三百箇条」が編纂されたのである。

最後のは難癖かなぁ。南坊録みたいに捨てろといわれたけど取ってました…みたいな簡単な処理は難しいもんなぁ。