日本茶の湯文化史の新研究16

今度は「景気」について。

「景気」は藤原定家の「毎月抄」に「さらん時は、まづ景気の哥とて、すがた詞のそそめきたるが」とあるように、古来の歌学における用語として頻出する言葉である。
定家は「景気」といって、人の姿や景色、心を表現する言葉などが縦横に交錯して、独特の雰囲気を作り出しているといっている。

つまり景気は、イコール景色ではない。心情表現も組み合わせたややこしい概念であるということ。

「浦の苫屋」は景色であって、「秋の夕暮れ」も景色である。
でも[浦の苫屋の秋の夕暮れ」になると寂しい風景を詠った景気になる。
そんな感じに理解した。

それでは茶の湯において「景気」はどのように用いられているか、若干の考察を試みたい。「烏鼠集」巻一(「茶道文化研究」第一)の第二三八条に、絵画の賛について次のような所見がある。

一 有賛無賛の絵、能阿・珠光も賛あるハ会席にて賛ありて面白と、凡慮の所及ヌを、賛を案内者にして詠と、無賛絵拝見してハ、賛有るは詠所さたむるに、賛なけれハ時々刻々景気を詠出、以前よりも又珍しきおもしろくなるを言語道断とほむ、然るを人一に聞きなす也、如比なる褒美は、万事諸篇に有物也、一篇に不可落

これを見ると、「景気」の用法の典型が表れていて、「景気」を定義付けているといってよいほどである。
すなわち能阿弥も珠光も、画賛のあるものは凡人や知識のないものには良い参考となって、絵画の深い理解に役立つし、一方、画賛のない絵画は「時々刻々景気を詠出」、以前よりも、一段と趣深く絵画を鑑賞することができるというのである。

客が同じ絵を見て「こう思った」は時々刻々変わって行く。
亭主が同じ絵を使って「こう見立てた」も茶会ごとに変わっていい。
そういった理解や見立てのような心情からくる景色あるいは雰囲気が「景気」なのだろう。

とりあえずそう理解したぜ。