新茶道

小林一三(熊倉功夫解説)/講談社/1986年。底本は昭和26年刊行。

終戦直後/公職追放中の逸翁が書いたかなり過激な茶のエッセイ。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20090423

以前紹介した、随筆 茶に収録されたのもこの書の一部だった。また、「大乗茶道記」はこの本をもとに更に内容をプラスしたものらしい。


月刊のエッセイと、読者や雑誌に載った反論と、それへの逸翁の再反論…みたいな構成になっている。つまり定期刊行物への連載だった筈だが、熊倉先生はその経緯を解説してくれていないので、正直良く判らない。

自分に自分で突っ込む様な、自作自演乙、といったスタイルの対談形式でエッセイは進む。


まず、逸翁は終戦直後からの茶道界と茶道流派家元がお気に召さない。

全体ご先祖のお陰で暢気に生活しているお茶の家元の連中が間違っている。こういう時代こそ家元の責任としても旧体制を切り替えて時代にふさわしいお茶の行き方を工夫し、改革し、そしてその精神によって新円階級を指導するはもちろん、我々旧い茶人達の在り方にも訓示すべき時だと思っている。

米国から栄養支援をされるような困窮の世が来ているので、家元は困窮の世を救う、大衆的な茶を指導すべきなのに、新興成金の旧態依然の豪華な茶に尻尾を振っている、という事を逸翁は憤っている。


しかもただそれだけでなく:

答:私はたた招ばれるから行く(略)
問:それはウソでしょう。(中略)むしろそういう仲間をおだてて、闇の茶道を牛耳っていられるのではありませんか。

そういう新成金に客に呼ばれる自分を自分で突っ込みまくりである。逸翁は近代数寄者の持つ、名物愛玩と侘び茶のアンビバレンツな部分を自覚していた事が良く判る。


三千家の箱書きビジネス批判もしているが、それに対する、表千家 茶道月報の巻頭言での反論、「箱書必要論」も収録されていて面白い。

(前略)
日本全体の国民経済からいえば何ら富の増産とはいえないが、この「打出の小鎚」あるため、数百人の茶方職方、商人の生活が保証されているのだから、これは軽々に抹殺してはならない。
(中略)
箱書のアイサツには喜んで搾取に応じる以上はドンドン箱書を利用して、富の分配富の調節を計るべし。

表千家の人もぶっちゃけすぎだ。

ただまぁ、ここまで家元批判しながら逸翁が考える新茶道とは

お懐石のお料理は腹七分目八分目を原則としたい立場から、一汁二菜あるいは一汁三菜くらいに局限したいと思っている。

この程度で実現手法への言及はない。「茶道と家庭生活」くらいの具体性があればもう少し家元批判に説得力が出るんだろうけれども。


大寄せに関して

その度ごとに感ずるのは、礼儀作法を目的の一つとしているお茶会が、はなはだ乱脈で、その作法を破壊しているということである。

ということから、各流派の家元達で話し合い一種の共通客作法を作ったらどうか、という事を提案している。
これくらいは実現されてもいいのではなかろうか?


その他美術品と美術館と税。墨跡の価値、美術の世界基準から見て茶道具はどの程度評価できるか、など刺激的な議論いろいろ、である。


茶人はついつい茶の世界だけに閉じて物事を考えてしまう悪癖があると思う。逸翁はするどくそこを突いて来る。


逸翁による豪華茶事批判はやっぱ若干スネに傷持つ感じでナンだけれども、国際人/審美家としての逸翁の言はやはり参考になる。


茶にはどういう批判があるか、というのは一応弁えて道を進まないと、非常に茶が小さいものになってしまうと思う。

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