茶道

竹内撫石庵/健文社/1934年。

まず序文。

眞に茶道の根本精神に徹して居れば、茶禪一味などを唱へる必要もなければ、形式論や道具茶を眞面目になつて攻撃することもない。たゞあるがまゝでよい。

ごもっともといえばごもっともだ。

「元始茶道に還れ」

茶によつて心の練られてゐるものが茶人であり、心の練られてゐないものは茶人ではないといふ定義ほどはつきりしたものはない。

…いや、わかりにくいよ。どうやら、形式習っているかどうかではなく、茶を通し精神修養できているかどうか、ということらしい。それも、常住坐臥その心を磨きなさい、という事らしい。

日常生活が茶道の精神であり、茶道精神を生活へ持ち込むことであらう。しかしこれは一寸考へるとかなりの重荷の如くである。

しかしお茶そのものを左様なしかめつらしきものとすることが間違つてゐる。
あるがまゝのことを行つてゐるところに眞の茶があらう。

おそらく、この頃、茶道に三つの勢力があったのではないか?と思われる。

  1. 華やかな道具茶
  2. 精神性を貴ぶが時代に合わせた最構成を行おう派
  3. 精神性を貴ぶ利休に帰れ派

1の勢力は概ねオピニオンを発しないからいいとして、2は小林一三らの茶道改革論者。撫石庵さんは3の勢力ではなかろうか。

でも3の勢力そもそも珍しいし、いまいち訴求力に欠けるよなぁ。つーか、利休らを現代にもってきたら2の作業をはじめそうだし。