茶道教室7 趣味づける
本書は、意外に存在しない「茶道教室を開くには」本である。
茶道の理念では理窟めいたことを説いたが、お茶は樂しいものにあらしめねばならぬ、六ヶ敷く堅苦しく窮屈に感ぜしめてはいけない。
(略)
茶を樂しいものにあらしめるために、指導者はいつも豊富な話題とか興味会う例證を用意しておく必要がある。
そろそろ、先生の心得的になって来た。
お茶に關して直接間接に、逸話とか挿話とか物語、やヽ高尚になつては文藝・美術・工藝等の話題は、常に喜んで彼らの耳を傾けしむるのである。
時に實際お點前を稽古するよりも、かうした「話」に好奇と歡喜の瞳を輝かせるのである。
生徒が、先生の茶話にいいリアクションを返すから、ちゃんと先生も準備しとこうネ、と言っている。
この點に於いて従來の宗匠達は餘りに無關心であつた。
といふよりも彼等の素養は餘りにも低級であり、無智であり文盲であり不勉強であつた。
「お點前さへ知つて居れば」それで茶の先生で澄してをられた時代は既に過ぎ去つてゐる。
その誤つた觀念から離脱して、宗匠自身の猛省と研究が望ましい。
「お点前だけ知ってれば」の時代というのがあったようだが、なぜだろうか?
そしてそれはなぜ「過ぎ去った」のだろうか。
戦前は女子教育の中に茶の湯がガッツラ入り込んでいたが、それが戦後になって状況が変わったということを示しているのかもしれない。
学校の生徒を義務的に1時間ばかしお点前手順だけ教えればいい、という所から、自分の社中を「先生の徳」でまとめていかないとお話にならない時代が来た、ということなのだろう。