尾張の茶道6 千玄々斎宗室

井口海仙「千玄々斎宗室」より。

玄々斎は幼名を栄五郎と称し、田安家の養となった。
田安家というのは、松平家の家臣の家がらで、同じ田安家が三軒あり、玄々斎の養家は田安太又という人が当主であった。
玄々斎は、その養家で、兄渡辺半蔵などと、裏千家の茶道を学んだ。
師匠は尾州家の茶道をつとめていた裏千家十世認得斎の弟子、辻宗範で、千家への養子の口ききも、おそらくこの宗範でなかったかと思う。
玄々斎が裏千家の養子になったのは、さきに書いたように、十歳のときで、

辻、という名字から松尾流との関係を考えてしまうが、調べてみると辻宗範は裏千家でなく遠州流茶道の人で、尾張藩の茶堂にはなっていないのではなかろうか?


そもそも裏千家尾張藩に入りこめたのは、玄々斎が近所の大名の息子だったからの縁故で、これじゃぁ順序が逆である。自分ちの歴史もあいまいなのはどうかと思う。


さて、松平家から田安家に養子に行った玄々斎が千家に再養子になったのはなぜだろう?
そこが一番知りたい部分なのだが。

田安家に男子が生まれた、というパターンと、松平家が田安家を見限ったというパターンがあるのだが…どっちなのだろう?

御三卿でもない雑多な田安家に関する資料なんてまず出て来ないだろうから上記の検証は難しいわな。