数寄屋図解事典9

げっかでん(月華殿)

横浜三渓園内にある書院式数寄屋。
もと伏見城内に織田有楽が造営したものと伝え、元和6年(1620)伏見城取毀しの際同有楽好みの席九窓亭とともに宇治の茶商上林三入に与えられ、後上林家から三室戸金蔵院へ寄付したものである。
(略)

こっちに詳しく書いてあった。
代官上林氏じゃなく、三入の方かよ。
しかし、関が原で伏見城焼亡が伝わるので、やはり怪しい部分は残るのだった。

こうせいいんしょいん(広誠院書院)

京都市河原町二条下ル船入町にある書院式数寄屋。
もと島津侯の家臣伊集院某が松平不昧の指図を受けて造営したものと伝え、全体の構想は書院と草庵の数寄屋が渾然と融和した数寄屋住宅である。
(略)

不昧の時代に数寄屋住宅はなかろうし、島津家がそんな裕福な人間を京都に輩出できるとは思えない。

http://kouseiin.org/building-garden.html
によると、明治も中期の、近代数寄者伊集院兼常が造ったもののようだ。

事典がこうも間違うのは珍しいね。

こうぶんてい(好文亭)
水戸市偕楽園内にある倶楽部風の中2階のある重層の数寄屋で、天保13年(1842)年7月徳川斉昭が一般士民の遊楽慰安のために造営されたもので(略)

ええっ?天保の倹約令に公然と逆らうことになるんじゃ…。
まぁ最終的には老中斬っちゃう藩だからなぁ。やっちゃうのかも。