茶心とへたうま

茶心とは何か?というのは、私の中でいまだ確たる答えが出せていない。

とりあえず「へたうま」には茶心があるのではないかと考えている。

志野茶碗の橋や織部の吊し柿はへたうまでこそ良い(みたいな話へうげものもやっていた)。良くないやつは、模様が繊細かつ上手で、いまいち小さかったりする。それじゃあいただけない。

高麗や黄伊羅保、沓型茶碗はへたうま、だと思う。土見せまで綺麗に焼成された高麗。くちが綺麗につくら、つるつるした黄伊羅保。真円の沓型。きっちりつくりこんで「単なる上手」にしてしまうと、茶人的には死んでしまったのと同じになる。


柳宗悦民芸運動は、無名工の中にも美やうまさがある。だから再評価しよう、とする運動。かっての茶人が無名工の高麗茶碗を評価した事を自分達に重ね会わせてたりするけど、「へたうま」なままをヨシとしない感じがする。行き付く先が違うと言うか。
この違いが民芸窯からいまいち茶心を感じにくい理由なのではないかとも考えている。

「へたへた」は味わいあっても見所がない、という点でだめだろうな。

茶人手捻り茶碗は大抵へたへた。「××斎が作った」という文脈を除外すると、単体としての茶心はあんまりないんじゃないかと思う。

「うまへた」ってのはあるのだろうか?昨今の量産陶器はうまへたと言っていいのかもしんない。こりゃ茶心はないよな。

「うまうま」が難しい。

仁清には圧倒的なうまさしか感じないが、茶心を感じる。
華美な京焼に茶心を感じるが、華美な伊万里に茶心を感じない。

うまいと駄目になるものと、駄目にならないものがある。これが判んないんだよね。