武家と千家
昔の茶道書を何冊かたぐって行くと、江戸中期頃より、武家茶道側から千家の茶道に対する猛烈な批判があった状況が見えて来る。
- 石州流の完全相伝制度により各地の武家が一家言持つようになった。
- 幕府に結社として粗探しされない様、茶道の交わりは藩内での上司部下の関係内でもっぱら行われた。社内でのおつき合いゴルフに近い世界である。
- 武家の財政難で贅沢は禁止。家中を締める必要があった。
というのがあり、
- 富裕な町方を相手に安定した不完全相伝の教育システムを確立していた
- 七事式の制定にはじまる遊芸化がはじまっていた
という千家のあり方に批判の鉾先が向いていたみたい。
で、千家の側からなんらかの反論が行われていた感じは全くない。黙殺。金持ち喧嘩せず的処世術でスルーし続けた。そして現代までもその態度は一貫しているぽい。というのも柳宗悦からの批判にも未だ応えていない、という批判があるくらいだからだ。
乞食宗旦は姫宗和を批判していた。武家が桃山末期ひきずった状況で「侘びてんのは千家であって、華美なのは御武家さんたちですよ」という批判である。
その後300年以上、「千家は華美だろ?」という批判を黙殺し続ける事で、宗旦の時に確立した「こっちの方が批判する側ですよ」という立場を維持し続けている様にも見える。
広報戦略でやってるとしたら、すげぇぜ、千家。