家元ものがたり3 千家の諸流

で、千家の話。

茶道の流派では、千家の流れが家元制度をつくってゆくのであるが、この流派でも石州流などと同じようなあり方をして、武家の社会あるいはそれに近いところで完全相伝が行われていた時代には、庸軒流・普斎流、宗偏流というように、同様の分流現象が行われていたのである。
つまり千家流の茶道も、元禄以前の時代には、完全相伝の型式によって、石州流と同じようなあり方をしていたのであった。
いわばたんなる茶道家元にすぎなかったというわけである。

元禄以前の千家では、完全相伝が普通で、どんどん独立が可能だった。
もちろん独立して流儀を後に残せるのはそれなりに技量があったり目端が効いたりしなきゃいけなかっただろうが。

ところが、後に表流といわれる家柄で、利休から六代目に当たる覚々斎原叟、ならびに七代目如心斎天然のころに及んで、千家の茶道とその門弟の社会組織とがおおいに変化してきたのである。
それはどういうことであったかというと、ひとくちにいえば、新興町人を対象とした大衆的庶民的な茶道にきりかえ、しかもすべての相伝を、わずかの例外を除いてすべて家元が独占してしまったということであった。

確かに、不白を例外として、それ以降の独立って、明治の裏千家→大日本茶道学会ぐらいまで思い付かない。


如心斎頃の千家は「茶を学ぶ人≠学究の人」という現実を良く知っていて、大人数で楽しくわいわい学べる七事式を武器に、金を持っている町人階級でのシェアを獲得していった、という事なんだろう。


茶の湯の中央集権化とマスプロダクション化がここに始まった、といってもいいのではないか。