茶道規範81 茶道要録と茶話指月集

最後に。

茶道要録が記されたのは元禄時代
具体的には元禄4年。
元禄3年の茶道便蒙抄の1年後である。

便蒙抄を出したら好評だったんで次!…みたいな理由で出されたんだろうか?


便蒙抄と要録の大きな違いは、便蒙抄がお点前の話に終始しているのに対し、要録が利休のエピソード等を折り込んでいること。

そういう意味で言うと、元禄14年刊行のエピソード集である茶話指月集に先行する。

宗偏が、宗旦から聞いたエピソードと、久須美疎安が、藤村庸軒から「宗旦がこう言っていた」と聞いていたエピソードに、さほど矛盾がないことに驚かされる。もっとも「朝顔の茶」みたいなエピソードが後発の茶話指月集にしかないのは気になるが。

しかし、松屋文書の様な、同時代っぽい資料との間にはなにかと解離がある。

千家由緒書が提出されたのはその40年ばかり前であり、その内容から大きく解離した本を出すと、千家が紀州徳川家を騙したみたいになってしまう。
なのでその時代から「千家公式見解」みたいなものが用意されていたんじゃないだろうか。