小間の原点

人間はピクシーの幅があれば生きて行ける。
これは案外に数寄的な言葉かもしんない。

茶室は都会のアジールとか市中の山居とか言う。これは外界と遮断された自分の数寄だけで構成された空間。

いにしえの茶人達は二畳、一畳台目にと茶室を小さくしていった。この行為を「無駄をそぎとる」とまぁ美学方面から語る事もできそうなんだけど、私は違うと思う。「空間が狭ければせまいほどその結界内を自分で支配できる感が高まるから小さくした」だと思っている。美術的と言うより魔術的。

子供時代に誰もが「アジト作り」を体験する。これが茶室の原点ではないかと思う。

アジト作りは子宮回帰願望とか言う人もいるかもしれないけど、私は庇護され/無力な子供が、自分を体感するのに必要な行為だと考えている。一旦、外と切り離し、自分だけが絶対の空間を作って個を認識する、という行為が子供には堪えられない喜びなのだと思う。

てことは、僕らの世代で言う三つ折れのマットレスとか、大きめの空きダンボールとかが、茶室の原点?

そういう意味で茶室というのは、案外子供じみた空間なのかもしれないし、私が「茶室が欲しいな」と思うのも、実に子供じみた欲求なのかもしれない。

でも自分が子供じみている事を否定する程子供ではないので、それはそれでいいかなと思っている。