スノッブ
茶道史を調べていると、昔の茶人のロクでもない話にであう。
- 利休の、蒲鉾が出たので興が醒めて帰った話。
- 宗旦の、炉壇が冷えていたので興が醒めて帰った話。
- 長闇堂の、戸口見たトコで興が醒めて帰った話。
- 松屋の、夜中に押しかけ茶事をさせた話。
- 遠州の、石州に茶入をほうってよこした話。
- 織部が、紹智のトコで万引きした話。
不事の茶事強要しといて気にくわないと勝手に帰ったりするのはどうなんだ?お茶の精神性はドコにあるのだ?和敬清寂とか、そーゆーのお前らにはないのか?…と思っていた。
…ハタと気付いた。もしかして、あの時代「お茶は精神性なんぞない!スノッブな悪趣味に過ぎない」ってことなんじゃなかろうか?
金持ちが、名物道具使う広間の茶に走った。そこに精神性が加わって、侘び茶が生まれた。
そんな風に理解していた。でもそうではなくて、
金持ちが、名物道具使う広間の茶に走った。さらにスノッブになって侘び茶が生まれた。
こういう可能性もあるよな。
「一座建立」「一期に一会」「茶禅一味」とか、そういう言葉に惑わされていたが、そういう精神性っぽい言葉も、スノッブな趣味への味付け。あるいは縛りを入れてわざと不自由にするレギュレーション。そう考えてみる。
…いにしえの茶人の性格悪く見える理由がすっきりする。
名物道具なんぞ飽きる程持ってるし他人を雇って贅を尽くした接待もできる。そんなのには飽きたので、雑器を使い、質素でも自分で心を尽くした接待をする、という遊び。
心を込める事が目的であれば、少々亭主の心の込め方が足りなかろうが、客としても心を込めて対応する筈。
スノッブであることが目的で心を込める事がその手段に過ぎなければ、客も心を込めて客たりとする必要は無い。手段の不足を理由にスノッブらしい対応をすればいいのだ。
なにごともありがたい、ありがたいと受け止め、勝手に帰ったりはしない分、いにしえの茶人より現代の茶人の方がずっと精神性高い茶道をやっているのかもしれない。彼らからは「ぬるい」って言われるかもしんないけどね。