茶人になるには
茶人になることは難しいことだろうか?茶道を学んでいると、なんだか難しい事に思えてならない。
でも、茶の湯って本来、お客を招く実用的な接待術。「30年学ばないと客が呼べない」なんてことは無い筈だ。
利休なんて10代で茶事をやっている。つまり長い修行をしている筈がない。不昧も贅言書いたのは20才、稽古3年目だ。宗観も細かい所は手紙で学んでいる。
心をこめて茶事ができれば茶人。それでいいんではないだろうか?
なんでこんな風になってしまったんだろう?なぜ、茶事を縁遠く感じるのだろう?
茶道の先生が職業化した事が原因ではないだろうか?
つまり、教えやすい事だけ教え、いくら教え続けても終らない構造が作られていったのではないかと考えている。
まず、茶事って教えづらい。4時間掛けて1工程では大変だ。料理の準備も大変だし。お点前の練習なら、一人15分で済むし、菓子だけ用意すりゃ良いんで楽だ。
もちろん、茶事稽古を年一、二でやっているトコが結構あるのは知っている。月一で茶事稽古やっているトコだって知っている。でも、大半の教室は茶事を中心に廻ってはいないのではないだろうか?
お点前の練習を分割し、帛紗捌きだけ、とか、茶筅通しだけ、とかやるのが割稽古。でもお点前の練習は茶事の割稽古に過ぎない筈だと思うんだけど。
30mからのミドルシュートが100%キマるまでシュート練習。でも練習試合さえやらないサッカー教室。そんな感じになってないだろうか?
また、茶の湯は茶道になってしまった。「道なんだから極めなきゃ」って感じで、稽古に終りは無し、みたいな長〜い世界になってしまった。
先生のたつきとしては、その方が有難いのだろうが、それで実用から外れてしまったんじゃないだろうか?
特殊な道具の使い方なんて知らなくても、自分の持ってる道具の使い方知ってればいいと思うんだが、どうなんだろう?
学ぶ事は一杯有り終点にたどり着かないと自在を得ない(様に思える)。なので、道半ばで茶人と名乗るのが難しくなっているのではないか。
これらの事が原因で、茶事をする/される機会が減る事で茶事の実践の場が減ると、ますます茶事が縁遠くなるという悪循環。そういうのが起きて今に至るのではないだろうか?
まず茶道は茶の湯に堕して、気軽な存在になるべきなんじゃなかろうか?広く茶の湯があって、究めたい人だけ道に入る。そーゆー風であればいいのに、とか思った。