桂籠の謎


忠臣蔵の重要な小道具、桂籠。


なんで冬に籠なんだろう?という謎はあらかた解けた気がする。

でも、それを除外しても、この籠、謎が多い。


まず第一の謎。

この籠は事件当日誰の物であったか?


吉良上野介のものか、山田宗偏のものか?どっちかしかないとは思うけど。


第二の謎。

この籠、山田宗偏経由で最終的に香雪美術館に収まるわけだが、なぜ事件後に山田宗偏のものとなったか?

事件前後の所有権の話がセットで判らない。


籠がもともと吉良上野介のものだとすれば、事件後山田宗偏のものとなった理由が判らない。事件後しばらくして吉良家は改易されるが、籠自体は吉良家のものだものね。


籠がもともと山田宗偏のものだとすれば、茶会に籠が使われた理由が判らない。数寄大名であった吉良上野介が市井の茶匠に道具を借りる理由が判らない。


第三の謎。

もし、伝説通り、泉岳寺まで桂籠が首代りに持っていかれたとしたら、いつ、誰が、どういう手続きでこの桂籠を山田宗偏に返還したのか?

武装解除された際に接収されただろうただの穴のあいた籠が利休由来のものであり、山田宗偏に返還すべきものである、と幕府側が知っていたか、大高源吾あたりが進言しない限り、山田宗偏の手元には渡らない筈。

どういう手続きや運動があったのか?


第四の謎。

この籠の、それ以前の来歴が判らない。

桂籠は利休が桂川で漁民の持ち物から見出した、という逸話があるが、この話の初出はどこなんだろう?

利休が籠を使った、という、信用できる会記もないし、利休ってそもそも竹花入のイメージが強い。

宗偏以前に辿れるのだろうか?それとも宗偏が言ったの?それ以降?

宗偏の弟子が書いた「千家中興名物記」より前に辿れないと、この時点での創作、と言われても仕方あるまい。



多分、赤穂浪士の討ち入りに関してしっかり研究しないと判らん気がする。

そもそも桂籠を首の代りにした、という話自体の史実性もよくわかんないんだけど。