利休百首談義

土肥宏全/1968年より。

本書では一般の百首と青木宗鳳本の比較も行っている。
「利休道歌に学ぶ」と大きく相違する点をチョイスして行く。

まずはこれ。

百首扇
手前には弱みを捨てて唯強くされど風俗卑しきを去れ
(略)
解 此歌にある手前は点前のみを言うのではなく、茶の湯の折の所作全般の意味と解釈すべきと思う。
弱みは受身を言うのである。
"強く"は意を通すこと、つまり茶の湯の主導権を持つことと思う。
さて以上の事柄を以て百首扇の意を見ると、所作の折の心得は受け身にならぬようにすべきで、いつも主導権を持つべきである。
但しその態度(風俗)がいやみにならぬ様にせよ、と言うのである。
(略)

「強み」「弱み」を茶風全体の話とする独自解釈。

この場合風俗卑しいのは「利休居士三十五ヶ條の嫌忌」の「我こそ顔」ですな。


対句の方も見ますと:

百首扇
手前には強みはかりと思ふなよ強きは弱く軽く重かれ
(略)
茶の湯の折の亭主の動作を、前の歌では一応強くせよと言っているが、強くと言っても程度がある。
つまり主導的立場を持ち過ぎると却っては内容のないものになり、又楽しくなくなるのである。時には客に花を持たすことも必要であり、こうした緩急よろしきを得た時にこそ茶の湯は楽しくなるのである。
(略)

「客に花を持たす」ってのがリアリティですなぁ。

「おもてなし」という漠然とした用語でなく、「楽しくなる」というのが実によいですよ。