茶事談6 本朝茶祖珠光傳 禅と礼

世人茶ノ會ハ佛家ヨリ出シトイヒ或ハ禅法ヲ不學茶事ナシ難シナドヽ云ヘリ
考ルニ初メ傳教弘法茶ヲ漢土ヨリ取リ帰リ栄西明恵茶ノ製法ヲ弘メ後ニ珠光出テ茶事備リ宗悟宗陳禅宗ニテ紹鴎宗易モ亦禅宗ヲ尊ミ宗易ワケテ禅學ヲ好テ大徳寺ノ聚光院古渓和尚ノ弟子トナル
是ヨリ茶家代々聚光院ノ旦那ニテ世々禅學ヲ尊ム故ニ大心和尚ノ巾條ノ語ニ茶味禅味是同一休利休非別人又東坡ハ禅ヨリ出ルト思ヘリ
附會ノ説可笑
按スルニ茶経茶譜茶録茶集(草冠+舛)賦此外本朝ノ茶書ニ茶ノ来由禅ヨリ出ル事ナシ茶ハ敬ト禮トヲ以テ飲之玉川子東薗先生皆如此
故ニ茶事ハ禮ヲ第一トス

茶は禅から出たっていうけど、茶経なんかにゃそんなこと書いてないよ。茶は礼だよ!

という、割と珍しい反論。

紹鴎が禅を好んだ…というのがツッコミどころか?

服紗ヲ腰ニサシハサミ出テ客ヲ向ク是佩玉ニ代ル
是ヲ以テ茶事ニ禮アル事ヲ可知
禮ハ六合ニ満ルモノナリ
茶ヨリ道ニ入故ニ茶道ト云フ
珠光茶ヲ好風雅ヲ以テ近國ニ鳴ル
故ニ義政公ヘ召出サレテ公方ノ師トナル

服紗を佩玉に同定している所、紛れもなくシノワである。

東山の足利義政が禅なわけねーだろ、茶がシノワな礼だからこそ、珠光は呼ばれたんだよ!というアピールか。

後南都水門ト云所ニ居ル
又實父木工市死去ノ後ハ實父ノ家ニモ住リ南都手貝町土門氏ニ三畳大目ノ茶室アリ
珠光好ト云ヘリ
然共珠光ノ時ハ四畳半ニ限リ三畳大目ト云茶室ナシ
珠光ノ時ハ盆點ニテシカモ臺天目ナリ
右ノ茶室ハ珠光門人引拙古市等々好ナルヘシ
篠道耳宗悟宗陳マテ臺子袋棚ヲ用ユ是茶ヲ敬スル故ナリ
紹鴎棚ヲ好ム其時ハ臺子竹臺子或ハ袋棚ナリ
大目ノ茶室ニテ棚ヲ用ル法ナシ茶人ノ能知所ナリ
右の茶室ヲ世人珠光好トスルハ後哲ノ論ヲマツノミ
小松中納言利常卿ノ時此茶室ヲ所望アリテ寸法求メ新ニ作玉ヘリ
今金澤ノ茶室コレナリ
手貝町の茶室永禄ノ兵火ハマヌカレタレ共
惜哉九十年以前手貝町大火ノ節此茶室モ類焼ス
今ノ土御門氏ガ茶室ハ再ビ金澤ノ茶室ヲウツスト云
又珠光京師ノ宅ハ西洞院通三條下ル柳之水之町ト云

この部分長々しいが、松屋さんが珠光の三畳台目茶室を持ってたけどアレインチキだから!ぐらいしか書かれていない。

まぁ台子の時代に台目切はないわいな。

世人宗易利休居士ヲサシテ本朝茶事ノ祖ト云ヘルハ宗易茶事ヲ以テ
信長公ニ仕ヘ後ニ秀吉公ニ仕ヘテ三千石ヲ領ス
此時四海週半平治シテ秀吉公此道ヲ好ミ玉フ事慈照院義政公ト同シ殊ニ其性大氣ニシテ官位心ノ儘ニ進ミ明智光秀ト一戦ノ砌モ山崎ニ構茶室或ハ小田原陣中ニモ茶ヲモヨホシ肥前名護屋ニテモ山林ヲツクリテ茶亭ヲカマヘ
北野松原ニ茶室ヲタテ大茶ノ會ト名付ケ和漢ノ雅器ヲカザリ京南都或ハ左海近國遠國チャヲタシムモノニ見セシム
此皆宗易秀吉公ノ命ヲ受テ其事ヲイトナム
故ニ世ノ人宗易ヲ茶事ノ祖ト心得ソノハジマリハ南都稱名寺珠光ヨリ起ルコトヲシラズ

今時の人は茶の湯は利休が始めたものだと思ってるけど、それは秀吉にプロデュースしてもらって有名になったからだから。ホントのはじめは珠光だから!
と言っている。

江戸中期、

  1. 利休が茶の湯の祖と思われていた。
  2. 珠光は忘れられた存在だった。
  3. 著者は珠光が茶の湯の祖だと思っていた。

という状況だったかと思われる文章である。