日本茶の湯文化史の新研究10

「学問所」の話。

古来、奈良法隆寺は「法隆学問寺」(「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」)と呼ばれ、遣唐使として派遣された「霊雲、僧旻、勝鳥養」等は「学問僧」(日本書紀巻二十二)と呼ばれた。
この「学問」は、法隆寺で行われる仏教学を指し、また、大唐留学によって僧侶等が学んだ「学問」は仏教の教義、教典に限らず、仏教美術、建築、工芸など、極めて広い範囲にわたっていたことは周知のことである。

「学問所」とはもちろん学問をする場所の話である。
初期は仏教が学問だった。

「学問」と茶の湯が、全く同じものとして認識された典型例が伏見城内学問所である。
(略)
「学問」または「学問所」の意義を「茶の湯」ないし「茶室」に限定して用いたのは、相国寺西笑承兌の「学問所記」である。
いうまでもなく本書は、豊臣秀吉の偉業を景仰し、伏見城建設に沿って作られた城内山里の茶室の成立由来を記したものである。

ところが秀吉の時代、「学問所」が茶室になり、「学問」が茶の湯になったことがある、というのである。

世間一般に茶の湯を好む者は多いが、奥儀を究めた者は極めて少ないという中で、「学其通」として「学問」の基本を、直接茶の湯の精神に求めているのである。
「学問所記」と称しながら、茶の湯という「芸能」に「学問」を見出しているのである。

山里郭を学問所として扱った上で、茶を研究する場所のように考えていたんだと言う。

うーむ、しらなんだ。

茶の湯が学問の筈がないのに学問とされた、というのであれば、これはアレかな?思想教育を目的とするのかな?

刀狩りと並んで、平和化事業の一環だったってことは無いんだろうか?
戦国の世を終えて、下克上を廃し武将達の牙を抜くのは急務だった筈だもんなぁ。