6月の展覧会

うーん、宇和島の気になる…。

東京近郊 期間 タイトル 備考
出光美術館 -6/4 茶の湯のうつわ
出光美術館 6/10-7/17 水墨の風
畠山記念館 -6/18 茶の湯の名品
根津美術館 -7/2 はじめての古美術鑑賞
五島美術館 6/24-7/30 料紙のよそおい
静嘉堂文庫美術館 6/17-8/13 珠玉の香合香炉展 稲葉天目
東京国立博物館 -6/4 茶の湯
中部〜北陸
サンリツ服部美術館 -6/4 床飾り もてなしの心をうつす道具
サンリツ服部美術館 6/10-9/18 食のうつわ 使うよろこび、見るたのしみ
昭和美術館 -7/2 うつわのかたち
木村茶道美術館 6月 青磁の道具展、煎茶の掛物展 滄風茶席
金沢市立中村記念美術館 -7/23 工芸に生きつづける花と鳥
関西
裏千家茶道資料館 -9/10 やきもの巡り
大西清右衛門美術館 -6/25 幕末明治の茶の湯
北村美術館 -6/11 薫風
樂美術館 -6/25 茶碗の結ぶ縁展
山城郷土資料館 6/3-7/9 京都茶器物語
逸翁美術館 -7/30 開館60周年記念展 第二幕 開け絵巻
湯木美術館 -7/30 ひと目でわかる京焼300年の歴史
藤田美術館 -6/11 ザ・コレクション
正木美術館 -7/2 風光を仰ぐ
滴翠美術館 -6/11 渡来の茶道具
中国、四国、九州
田部美術館 6/9-7/23 梅雨時一服
宇和島市立伊達博物館 -6/4 秀吉と利休 唐物とわび

常設系

斎藤美術館
マスプロ美術館
岩田洗心館
宍道集古館
岩国美術館
耕三寺博物館
熊谷美術館
津軽茶道美術館
茶の湯の森 茶の湯美術館
百河豚美術館 いつも仁清展?

南方録と立花実山10

「ふすべ茶湯」とは自然の風物を背景にして催す茶会であり、
土を掘って石を組んで炉を造り、また樹の枝に釜をつるしたり松葉や柴をくすべて湯を沸かすなど、季節によって場所によって工夫を凝らすところに妙味があるという最も野趣豊かな野点のことである。

松葉もくもくの焔で、松の枝に釣った釣釜を使うのがふすべの茶である。
南方録に、秀吉の九州征伐時の出来事として記載されている。

ふすべ茶湯と云ことは俗名なり。野がけのことなり。清浄潔白をもとゝす。大善寺山、または筑前箱崎松原にて、休のはたらきに、松陰なるゆへ松葉をかきよせ、さは/\と湯をわかし、(略)

んで、当然著者のメスが入る。

大善寺山については、従来岩波文庫の「南方録」などにあるように福岡県久留米市大善寺とする説が一般的であった。
しかし秋吉満著「『南方録』に云う『大善寺山ふすべ茶ノ湯』についての私考」(「茶湯」第一六号所収)は、秀吉の九州平定の順路を細かに検討した上で、次の通り久留米大善寺説を否定している。

それ以前に利休は秀吉と同行していないとか、刺激的な話がいろいろ。


南方録の欠点の一つは、九州に関する出来事が多過ぎること。

「どこかの誰かが書いた書物」が実山に渡った、というより、やはり実山周辺の「九州の人間」が書いたものなんだろうなと思う。

南方録と立花実山9

実山は主君光之の側勤めであったため、参勤にも毎回供奉しており、その回数は「梵字艸」にも記しているとおり合計三十八回を数えている。
またしばしば特別に暇をもらったり、参勤の前後に許可を得て別行動をとっている。
そのような機会を利用して書画・茶道・和歌に励むこともできたのであろう。

実山は立場を利用して、参勤交代の途中京都に寄り道を繰り返していたらしい。
エグゼクティブならではのやんちゃである。

翌元禄十五年には、実山は二月二十七日に福岡を発ち、明石から陸路を難波に至り、難波から船で淀川を上っている。
梵字艸」に列記された「晴事」、すなわち晴れがましい思い出の中に次のような茶道に関する記述がある。

○山崎に至て妙喜庵二畳の茶室に再び入ル、かつ炉ぶち(縁)寄付せし事
○千宗安亭に茶話、利休堂に像を礼し茶を供ずる事

その過程で、千家にも出入りしていたらしい。

…。


実山が南方録を手に入れたのが貞享4(1687年)の事である。
元禄15年は1702年。

裏千家の利休堂まで行って、南方録の話をした、という形跡が一切無い。
その「再発見」は自分の手柄の筈なのに。

南方録は千家に見せるようなものではなかった。
南方録贋作説の状況証拠の一つではあるな。

南方録と立花実山8

実山所持の道具に関して。

実山は宝永五(一七〇八)年六月三日綱政の命によって中老の野村太郎兵衛祐春に預けられ、鯰田に幽閉されている。
「長野日記」によれば、このとき実山は茶道具などの家財を除いて武道具のみを藩に召し上げられている。
実山が書き留めたと思われる「立花家什物目録」(「屏山文庫」福岡県立図書館蔵)という史料がある。
(略)
この「立花家什物目録」の中から南坊所持と付記されている道具を選び出すと次のとおりである。

掛物
○○○一 一山墨跡 南坊所持 表具ともに古来

花入
○○○一 吹毛 利休居士作、 名判有之、 南坊所持

香炉
○○○一 東雲 南坊所持

茶杓
○○○一 南坊ロテイ 筒ともに

実山は南方録の入手ルートから南坊所持の道具を求めた、と書き残している。それがこれらである。

現代に伝わる南坊宗啓の道具は、高山南坊左近との混同や、宗啓=慶首座=利休の茶杓の下削師という発想でこじ付けられた別物が多いが、実山所持のものはそうではないと思われる。


実山がこういった道具を持っていたというのなら、もしかすると南方録はこれら道具の正統性を証明させる為に作られたフェイクの茶書なのかもしれない。


…ないか。

そんな目的のためにしちゃ南方録の分量は多過ぎ、良くでき過ぎている。
それに贋道具を売り払うためなら消息の一枚でも偽造するだけでいいわけだからなぁ。

藤田登太郎茶陶展

畠山記念館で開催中の藤田登太郎茶陶展。

今年はGWでなくこの時期開催。

昨年末交通会館で開催された展示の内容と、今年焼いた瀬戸黒を中心にした展示。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20161216

瀬戸黒の技法に、引出黒と置黒があり、それはどう違うか、というのをお聞かせ戴く。

すっくと立った瀬戸黒「郭公」。

箆削りで胴紐を再現した黄瀬戸「山吹」。

窯変荒々しく手取り重い「木曾」。

兎舞う可愛い「野守」。


いろんな茶碗を手取りさせていただく。

しかし一番のごちそうは藤田先生自身だったり。

また来年もお会いしたいので、お元気でいらしてほしい。

28日(日)まで。

南方録の会記に頻出する「ス」の一文字。

これは「又」であり、「そして」程度の意味であり、一般的な風習ではない(でなきゃいろんな研究者があーでもないこーでもないといわない)が、実山の周辺では行われてきた記述法である、という。


これはおそろしいことである。

なぜかというと次のどっちかを意味するからだ。

  1. 実山が南方録の会記を読みやすくするために、南坊宗啓の著書を筆写する際に独自の記法で転記した。
  2. 実山周辺の関係者が、南方録の会記を書いた。

前者であれば、実山は南方録を筆写する時に、原書に忠実でなかったことになる。

後者であれば、南方録は実山周辺の誰かが書いたものであって捏造確定である。


仮りに好意的に見て前者をとったとしても、原書に忠実でない筆写をした段階で「茶道の聖典」とか言えなくなるからだ。

でもまぁ普通に考えて後者だよなぁ。

南方録と立花実山7

南方録の会記には「ス」とだけ書いた行がある。

これをどう解釈するかは長年の課題だった。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20091015

福岡の南方流の中心となっている博多円覚寺の前住持で、元南方会会長を務められた龍淵環洲和尚にお会いしたことがある。
その際「ス」は正確には「又」の字であって、「そして、それから」の意味である旨ご教示いただいた。
しかし円覚寺にある実山自筆本の「ス」は、第二画が第一画を突き抜けておらず、「又」とは読めないように思われたものである。

実山自筆本のその字が「ス」にしか読めないし、それを筆写した人間も「ス」として書いちゃうんだから、「ス」の解釈が重要なのである。

というか、宗啓の自筆とか実山以前の筆写本があれば解決する問題なんだけどね。

その後長く疑問に思っていたところ、(略)実山の父平左衛門重種の別荘で行われた歌会の歌集が目についた。
(略)歌と歌の間には「又」とはっきり記されており、かつて聞いた環洲和尚の説明が思い出された。

実山らは茶道に限らず切れ目や区切りには一般に「又」の字を置き、「そして、それから」の意味に用いていたのであろう。

なんだ、この話もう解決してたんじゃん。「そして、それから」なんて接穂なら、意味は全く無いってこったな。

しかし、実山の「南方録以外の筆記」に注目したのが著者しかいなかったんですかね?

お茶の研究者でないのが功を奏した感じなんでしょうなぁ。