割って、城を
私の古田織部像は、へうげものを読むまで、ながらくこの小説のそれだった.
多分20年ぶり位に再読してみた。茶の勉強をした以上、印象が違うはずだからだ。
昔読んだ印象は、
であった。
今読むと
- どうも茶碗を割る理由を間違えている織部
- 割ってただ継いでどうするよ。いい感じの形に繋ぎ直そうよ
- あれ、金継ぎの技法詳細が解説してある。ちゃんと取材したな司馬遼。
- でも金継ぎがずっしり重いと勘違いしている司馬遼。ステンドグラスかよ。
- にしても宋胡禄のエピソードとってつけたよーな感じだなぁ
- 人気茶人の理由って、秀忠にいつ告げ口するかわからないからかよ。浅!
- しょっぱい陰謀
- しょっぱいオチ
である。
今読み返してみると、もしかするとだけど、これ書いた当時の司馬遼って数寄を解していなかった、あるいは興味なかったのではなかろうか?
もしかすると回避すべき怪力乱神とでも思っていたのかもしれない。
司馬遼太郎にハマった時期がある。その頃は柴錬は駄目で風太郎は考えるのも嫌で、司馬遼カコイイ、だった。尻啖え孫市とか、はっちゃけたものでも端正で真面目だったのが格好よかった。今考えてみるとはっちゃけ切れない、というのが司馬遼の限界で、それが子供だった自分には安心だったのかもしんない。
この作品の雰囲気は司馬遼っぽくない気がする。
司馬遼は主人公に好漢を置く事が多い。でもこの話では主役は善十という別の武士で、彼から見た、ある種異常者としての織部像を描いている。司馬遼は、主役が織部では読者の共感は得られないと判断していたのだと思う。
そういう意味でへうげものはものすごい所に立っていると思う。