茶の湯古今春秋 その5 古田織部を楽しむ会

道具は織部づくしにして、点前は織部流にしよう、という企画。


道具はともかくとして、織部流のお点前する、というのがキモである。

著者はつてを辿って大急ぎで織部流のお点前を学んだ。

織部流は広間でする式正の点前と、小間でするわびの点前の二つに分れるのである。
初め式正の点前を見せていただいたが、これは、二、三日で覚えられるものでない。
水指は盆にのせられ、その前に手巾が置かれる。茶碗は全部、茶碗台と称する天目台を低くした台の上にのせられる。
茶入は盆の上に並べて置かれ、その前に和巾(袱紗)がのせられる。
これ以外に台にのせられた替茶碗が使用される。
和巾は、道具和巾と勝手和巾と二つ使用し、使い分けをしなければならない。
(中略)
織部流では、亭主は必ず袴を着用する。道具は絶対に畳にじかに置かない。
拝見のときは、菱形盆を持って出て、それに茶入、茶杓、茶入の袋をのせて出す。

うわー、こりゃ本当に大変そうである。

織部流を教えていただいて明らかになったことは、伝説のとおり、織部流は、秀吉の命令によって、利休の茶を武士化したことが確証された。
これは非常に重大である。
もしも在来の茶道史のように、足利義政、義教等によって、茶の湯が作られていたら、いまさら利休のわび茶を武士化する必要は無い。
室町末の武士の茶の湯に復帰すればいいのである。
ところが、そういう茶の湯がないから、利休流を武士化したのである。

そうだよね。秀吉が織部に命じて武士の茶を作らせた、という伝説が、東山御殿の茶の湯の伝説と並列する方がおかしいよなぁ。

織部流について、不審に思うことを一言しておく。
残されている織部の茶会記は、ほとんど全部三畳台目のわび茶で、長四畳が一回きり。
ただ懐石が広間で出されている。織部の好みを見ても、わび茶に向くものばかりである。
織部の茶碗は、茶碗台にのせては似つかわしくないし、茶会記には、茶碗台も、菱形盆も出てこない。織部の好みは、本来わび茶向きだったのではあるまいか。

あ、急遽教えてもらったのに恩を仇で返す様な発言。

このドライさが70年代初頭の男の茶の湯だったのではあるまいか?