宗旦と宗和

なんで宗旦は宗和が嫌いなんだろう?

私は加賀前田藩の仕官争いが原因だったんではないかと考えている。

"なぜか"還俗前にこさえた長男*1の宗拙に関して、加賀前田家に仕官したが失敗した、という説がある。

かたや金森宗和は、たった15歳の長男の方氏を加賀前田家の茶道師範(二千石)として仕官させている。これが1625年の頃である。1592年生まれの宗拙は33。いかにも「取って替わられた」感が無いか?

金沢、という土地柄は、宗和の茶道が作ったと言えなくもないので、現在の金沢から逆算して考えるのは間違いかもしれないが、それでも宗旦の茶道が金沢で受けるとは思えないよなー、と思う。
それに金森家は長近の時代に柴田勝家の北陸方面軍に所属していたので前田家と同僚。縁も深い。
前田家に仕官できる、と判断した宗旦の戦略ミスじゃなかろうか?

1642年、仙叟宗室は隠居した前田"鼻毛"利常に二百石で仕官。鼻毛の死後は前田綱紀に百五十石で仕官。

なんとかかんとか隙間に入り込んだが、石高でも位置づけでも金森の下って事になりはしまいか?

宗旦文書とか読んでると、乞食宗旦の名通り、超貧乏話ばっかりである。かたや宗和は、天皇近衛家となかよし。江月宗玩(津田宗久の子)と片桐石州(今井宗久孫)と金持ち系サロンを作っていた。

これだけでもなんかうらめしいよなぁ。「僕の居ない所で楽しくやってる奴は全て僕の敵と看做す!」的な反発心も抱くわな。


その後千家は隆盛を極めたわけだが、その時代の流れの中で金森宗和からの華やか系武家茶道の流れはいまいちぱっとしない。

私は金森家が道安派である事もあってか、三千家ネガティブキャンペーンがあったのではないかと考えている。ま、武家自身、「渋い=サイコー」的な茶人が多かったこともあったと思う。

もちろん、なんの資料的裏付けもない妄想だけど、今私らがやっている茶道って、結局は宗旦の地味な茶道ではない。どっちかというと宗和の華やかな茶道の系譜だと思うから、もうちょい評価してもいいと思うのだがなー。

*1:生年には異説あり