灰形の歴史
鑑賞に足る風炉の灰形、というものがいつ頃成立したか?というのを考えてみる。
まず第一に。
おそらく、最初期の茶の湯に風炉の灰形というのは無かったと思う。
切合風炉に鑑賞用の灰形は別に必要ないからである。
では、いつ頃成立したか?
歴史順に史料を漁ってみる。
まず、分類草人木(1564年)。
囲炉裏、風炉の項には灰形の記載無し。ただし香炉の項には灰推す事の記述が有る。
灰を整形する概念が香炉にあって風炉にないのだから、顕著な灰形は無かったと思われる。
山上宗二記(1588年):
灰のことは、すみのてぎわを真に入りて、麁相に見える様に灰を入るる也。
カッコイイ灰形なんてものは割り込む余地がなさそうである。
松屋会記(1637年):
灰カケヤウ、亭主左ノ角ノ下ヨリカケ初、順ヘ先ヘ次ニカクル
炉に灰を掛けるやり方の記載はあるが、風炉の灰は無し。
長闇堂記(1640年)。
風炉の灰の話はない。ただし囲炉裏の掻き上げの話は有り。
なお:
さてかねしやくし・柄火箸ハ、利休はじめらるゝ也、
ここでの灰匙は化粧灰を落す為のものとされている。
茶話指月集(1701年)。
意外にも風炉の灰形の話はなし。
炉の炉中悪しき、という話と灰さじの話のみ。
槐記(1728年):
享保十四年四月七日
(中略)
總別灰ノ仕様ノ事、(中略)サテ土器ノ内外ヲ堅メテ押付ケ押付ケテ
槐記の該当部分には掻き上げによる遠山の作り方も載っている。
源流茶話(1745年):
土風炉の灰は利休作意にて、前一文字(後略)
ここでは普通に今知られているような灰形が語られる。
という事は二文字押切とか遠山とかの装飾的な灰形を整える、という文化は、1700年以降に成立した文化なのではあるまいか?
であれば、茶湯古事談(1731年)にある様な「利休が由比ケ浜の風情を灰形に」みたいな話は、捏造って奴になるのではなかろうか。
どうも歴史の流れは
炉、風炉の炭の置き様拝見
↓
炉の灰の撒き様拝見
↓
炉の灰形を整える
↓
風炉の灰形の成立
と進化して来たのではなかろうか。
あと、二文字押切より遠山の方が洗練された新しい灰形だと思い込んでいたが、遠山の方が古いのかもしれない。だって掻き上げで遠山は作れるが、二文字は無理だもんな。