槐記14 歌

享保十三年三月二十二日:

昔ノ茶湯ニハ、墨跡バカリニテ、歌ノ物ヲ掛ケタルコトハ、利休ガ時分ニ、或茶人ガ利休ヲ招請シテ行レシガ、中潜リヲ開キタレバ、草芒〃トシテ飛石モ見ヘ難キ程ナリ、如何ナル態ニヤト推シテ、漸々草掻分テ入ラレシガ、鉢前ハ綺麗ニ掃除シテアリケル故如何ニモ譯アリケリト、中ニ入テ床ヲ見ラレタレバ、茶室ノ重代ニ、定家ノ小色紙ヲ所持シタリシガ,此色紙ガ八重葎ノ歌ナリシカバ、利休モ尤モナリトテ感ジタリシガ、是レ哥ノ掛物ノ掛初ナリト申ス、

「やへむぐら茂れる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり」の歌を掛ける為に、くさぼーぼーにして利休を招いた人がいた。これが歌の掛物のはじめである。

…。

で、その茶人誰?


「利休が創始者」ではなく、「利休を招いた人が創始者」というのはちと面白い。


まぁ、我々は歌を掛け始めたのが紹鴎だとか思っているのだが、この頃はそうは思われていなかったと判る。

あと、茶話指月集の朝顔の茶とかもそうなのだが、この時代の人の考える「利休の頃のお茶」というのはどうも奇を衒い過ぎている気がする。

利休さんが「毎度毎度おんなじ道具を出す人」とはきっと思ってなかったんだろうな。