茶道言行録

西堀一三/河原書店/1942年。

西堀一三による茶人の逸話集。
この時期の本にしては「皇国の御威」とかそういう文章が一切ないのは、著者のなんらかの抵抗か。

この本の中から、いくつか気になる話をチョイス。

まずは珠光の言葉から。

珠光は、普通に茶道の祖と云はれる。この人が、古市播磨に輿へて、茶道の精神を説いた中に、

一、所作は自然と目に立候はぬ樣に有べし

の言葉がある。
普通に云へば、「目に立つ樣に」と考へるのが人間の望みであるが、茶道の祖と云はれるこの人は、今までとは反對の事を説いてた。
この珠光が新しい茶道を説いた文明の時代は、戦亂の世を經驗し、以前とは違つた自覺が起るときで、かゝる事を國民の道として實践しやうとしたのである。

目立つ方向ではなく、目立たない方向に注力しよう、という国民への示唆。
なのに桃山時代はあーゆー時代だったのはどういう事か?
そもそも茶の湯なぞ、逸民への道しか実践できないではないのか?

此樣な件の精神に觸れては抛頭巾の茶入がある。
(中略)
此樣なものを何故愛したかと云へば、貴重なる道具を愛する傾向を離れたからである。

これがどういう事かと云うと:

けれども、この茶入の場合は、さうした完成があるのではなく、「土惡」である。
けれどもその故に「無類の名物」になると云つて居るのであつて、その考えは普通の樣ではない。

立派な新田肩衝などを愛用していた珠光が、土の悪い抛頭巾を愛する様になったのは、立派貴重なものを愛する事を止めたから、と言いたいらしい。

でも、立派貴重でないものを愛するのだって、十分目立つ事。そういうのって単に美意識の方向が変ったって言わないか?

肝心の抛頭巾が明暦の大火で失われているからなー。どういうブツだったか本当は判らないので、言いたい放題だよな。