奈良大和路茶の湯逍遙6 松永久秀の多聞城

極真台子の茶会

永禄六年正月十一日、久秀は多聞城内の六畳座敷に京都の医師曲直瀬道三、松屋久政らを招いて茶会を行った。
床に玉澗の煙寺晩鐘を掛け(略)名物づくしの茶会であった。
(略)
この茶会は道具組や料理だけでなく、その点前までがかなり詳しく『松屋会記』に書き残されていて、貴重な資料になっている。
興味深い点を一つだけ紹介しよう。この時は極真の長盆真台子であるにもかかわらず、洞庫(当時は勝手とよばれた)が使われ、道具が出し入れされていた。
台子は書院のもの、洞庫は草庵で老人が使うものと区別するような後世の考え方は、現実の点前の歴史とは違っていたことがわかる。

興味深い点は一つだけに限らない。紙面の制約のない私が松屋会記の該当部分を抜き書きしてみる。

一 於多門山御茶湯 六疊敷、北向、右カマヘ
主人 松永彈正少弼殿
        成福院 醫道三 久政 堺宗可 竹内下總守
御床ノ上、軸ハツレニ長盆ニ置ナリ、ツクモ、金ランノ袋ニ入、フクロノヲアサキ。
(略)
屏風ノ中、臺子四組ノ御餝也、エフコ水指、フタニ八葉/\十六葉ナリ、柄杓指・合子天下一也・平蜘蛛フロニ、柄杓指ハ鹿苑院殿御物也、
(略)

平蜘蛛を風炉に、というので、いまさらながらびっくりしてしまった。

形状的に炉の釜だと思い込んでいたようだ。
まぁそもそも平蜘蛛がひらべったい透き木釜みたいな形をしていた…という証拠もないわけだけど。

各着座、宗可御茶立候、森ノ別儀也、
長盆少前ヘ引出、ツホト天目ト風呂ノトナリノ北ヘヲロシナラヘ、左ノ袂ヨリ白フクサ物取出シ、盆ヲフカレ候、口傳、
障子アケ、茶筅入ヲ取出シ、脇ニ置、
(略)

四客の宗可がお茶を点てさせられている。
代点がなされる事、客が代点をする事自体は別にいい。

ただ、地元の松屋でなく、堺からわざわざ呼んだ宗可がお茶を点てさせられているのが興味深い。久秀の堺への影響力が感じられる。


あと宗可が白い帛紗を袂から出しているのも面白い。
我々ならば懐から出すところだ。


ただし盆の拭き方が口伝というのはどういうことだろう?
松屋会記は本来個人の茶の湯日記であって、他人に伝授する筈もないはずだ。
リアルタイムにこの文言を書き込んでいたのだとしたら、松屋会記の立ち位置自体を再検討する必要があるかもしれない。

松屋さんは宗可の茶会に2回行っているが、この様な点前の描写がそっちにはないのも気になる。

珠徳作象牙茶杓七スクヒ入テ被立候、下總殿取次テ、
初服成(成福院)、二道三、三霜臺(久秀)、四久政、五下總、六宗可、

正客が飲んで、医者が飲んで、亭主が飲んで、三客の神人商人が飲んで、家臣の取り次ぎが飲んで、代点の商人が飲む、という順序が興味深い。


あと、この時期廻し飲みはない筈だが、「七すくい」がすごく気になる。

一人七すくいだと、いくらなんでも多すぎる。さすがの九十九髮茄子も、6人分42すくいものお茶が入らないだろうし。

もし廻し飲みしていたのならば逆に6人7すくいじゃそんなの薄茶以下じゃん、とか思うのだが、江戸初期までのお茶は薄かった説もあるし、まだこちらの方が納得感がある。