喫茶南坊録註解

柴山不言/茶と美舍/1972年。

即中斎の序。

碌々斎の門下柴山不言翁の畢生の大著「喫茶南坊録註解」が、この度、数江教一氏の校訂を経て「茶と美舍」より公刊されるという。
南坊録は、古来いろいろ難しい問題を含む茶書ではあるが、利休居士の茶を知るには、やはりこの書を精読する必要があろう。
この註解書は、翁の苦心の作だけあって、非常に精密親切を極め、研究者に益するところ多大であると思う。
広く江湖にお薦めする次第である。

昭和壬子十二月 千宗佐

古田紹欽の序より。

この「喫茶南坊録註解」十巻が刊行になったことは、南坊録そのものの成立に、たとえ若干の問題が存するにしても、数少ないその註解書として、これがその思想的理解のために資するものがあることは、殊更に贅言を要しない。
(略)

数江瓢鮎子の序より。

南坊録は、利休の茶の正統をつたえる唯一最高の秘伝書として、茶の湯の世界では長いあいだ聖典視されてきた。
近年原典批判の研究がすすむにつれて、南坊宗啓の聴書きという肝腎の原本が伝わらぬために、立花実山の書写本「南坊録」には、いろいろ複雑怪奇な問題が含まれることが明らかになってきたが、それでもなお茶の湯研究の最も重要な資料であることには変わりはない。
南坊録は、その内容からいっても、もし後人の偽作であるとするならば、利休と同じ力量をもつ強か者がいたことになるが、現実問題として、それほどの大力量の士がかくれていたとは考えられない。
また、南坊録の内容そのものをも否定するとするならば、いわゆる利休の茶というものは雲散霧消してしまうことになろう。
(略)

誰もが南坊録に問題がある、と言うことを前提としていた序を書いている。

柴山不言自身は、全然南坊録の問題点なんて思ってなかったんだろうに…。


それでもここまでの序を表千家に書かせた、という瓢鮎子の力は凄い。
表千家的にはむしろなるべく触れたくないあたりじゃなかろうか。


最終的には瓢鮎子のいうとおりで、世間が利休の茶としてイメージするのは結局は南坊録の利休なので、もし全排除すると、茶話指月集のへんくつ親父しか残らないんだよなぁ。