淡交増刊 寛永文化と茶の湯8 小堀遠州と寛永期の京焼

中ノ堂一信著。

鳳林承章の隔冥*1記の茶陶記述から、京都の茶道具売買に関し検証した記事。

鳳林の手に入った京焼製品や、鳳林のもとを訪れた京焼陶工の記事と、大平五兵衛の関連する記事を比較すると、そのほとんどは大平五兵衛が仲介、贈与したと考えられるものであり、その他では(略)金森宗和との関係をうかがわせる記事が一例あるのみである。

鳳林は「大平五兵衛」という唐物屋経由でほとんどの茶陶を入手していた。
当時は唐物屋…道具商が窯元をプロデュースする形式で、茶陶が作られていたと言う。

ところで、こうした初期京焼と密接な関係を有していた大平五兵衛について、興味ある事実を明らかにしているのは、宝暦三年(一七五三)に竿直庵道哉なる人物が編集した茶器目利書『裁品謾話』である。
(略)
大平五兵衛 器肆 生国江州小堀村之人 遠州公江戸エ召給フ者也
明暦酉年ニ焼死ス子孫今ニ在

ところが、この大平五兵衛は遠州の関係者だったとのこと。
いわゆる近江商人だよね。

この他、大平五兵衛は京焼以外では瀬戸焼とも密接な関係を有していたことも注目され、(略)また加賀前田家など有力大名家にも出入しており、

大平五兵衛は相当手広くやっており、遠州の瀬戸茶入嗜好を相当ひろめていた痕跡があるとか。

それは遠州の死とその軌を一にしたかのように金森宗和好みの窯元である御室焼が登場することである。

つまり、茶人は好み物を宣伝し、茶商が形にし集金する。
当時の京には既にそういう仕組みが有ったということか。


とすると気になるのは宗旦の動向。

宗旦にとって樂家は、プロデュースと集金の機構だったのだろうか?
それはちょっと違う気がするなぁ。

*1:艸+冥