幻の茶室転合庵4 桜山一有筆記に見える転合庵

桜山一有は、遠州茶杓下削りとして有名な村田一斎の門下で、不二庵と号し、肥後細川家の茶道。享保十三年、八十三歳で没した。
「桜山一有筆記」は、彼が師より受けた茶事上の談話、自らの見聞記などを集めたものであるが、そのうち転合庵に関する記事が二個所出ている。すなわち、
一、袋棚は遠州堅すぎたるとて余り用ひられ不申候由
小さき程なるを伏見転合庵四畳半に置合せ、早見頓斎に手前仰せ付けられ候。人によりて然るべしとの咄
(天和二年正月七日、小堀十左衛門殿へ年始に参候節之咄)
一、伏見転合庵は四畳半なり。此処にて袋棚を用ひ給ふこと人による。早見頓斎はは小坊主なる故、袋棚の前に寄りて居るやうにせさせ給ふなり
(六月十八日小堀十左衛門へ見舞申候節物語也)

この記載から判るのは、転合庵は四畳半ということだけで、残念ながらどんな茶室かは判らない。

でもこの話の背景はちょっと面白い。

小堀十左衛門は遠州四男。旗本なので江戸の人である。
年末暑中の見舞いができるということは、桜山一有は肥後藩江戸屋敷に勤務していたのだろう。つまり、江戸での社交の為の共通流派としての遠州流茶堂だと思われる。


天和二年は1682年。遠州没後35年後だ。
嫡男の正之が1674年に亡くなり、三代目の正恒が跡を継いでいる。

もはや小堀政一の傍流になってしまった十左衛門には遠州の事蹟を正恒に聞いたりはしづらいし、わざわざ京都伏見屋敷の茶室に行って確認も出来ない。

豊臣政権の衰退で伏見は政治の中心地ではなくなったが、小堀家は伏見奉行をしていたんだから、伏見に屋敷がない筈はない。

小堀十左衛門が、それについて聞きたがっていた、というのが面白い。

茶で身を立てているわけでない旗本でも、やはり遠州流のブランドの下で社交するにはそれなりの知見を必要とした、ということと、遠州流高弟である桜山一有が、そういう遠州家傍流の四男坊に関してもあれこれ親切にしていた、というのが判ってほっこりする。