茶道四祖伝書15 鷺の絵

松屋三名物の一つ、鷺の絵は、その侘びた珠光表具のすばらしさから、利休が「数寄の極意」と呼んでいた逸品である。

では、鷺の絵、四人の初見はいつなんだろう?

茶道四祖伝書には松屋さんの自会記が含まれるので、それを確認する。


利休が見に来た最初の記事は天正7年である。

しかし、それが鷺の絵の初見かどうかは判らない。

だってその時点で利休は、「紹鴎さんから教わっている鷺の絵の秘伝があるんですよフフフ、松屋さんお教えしましょうか?」的な上から目線の話を松屋さんに持ち掛けているからである。

ここで疑問である。

そもそも何故、紹鴎が、持ち主の松屋さんすら知らない秘伝を知っているのだろう?
まぁそれは珠光からの伝来なのかもしれないが、なぜそれを紹鴎は利休に伝授したのだろう?
肝心の持ち主である松屋さんに伝授されてこなかった理由はなんだろう?

そういえば鷺の絵は松屋三名物の一つ、としか意識していなかったが、その来歴は知らない。資料上、永禄5年の津田宗達他会記が初出だと思うが、それ以前はどうだったのだろう?

謎は深まるばかりである。

(追記:もっぺん読んだら、利休は永禄5年11月26日の会で見ていて、しかも「御名物拝見本望にそうろう」といった礼状をだしているのでここが初見ですね。これは紹鴎死後7年たっているので、初見の後で紹鴎さんから伝授されたわけではないですね。しかも初見から17年後に紹鴎からの秘伝を伝えたわけです。ますます謎が深まった感じです。)


次に織部

織部天正13年に、利休の勧めで鷺の絵を拝見しに行った。
利休との師弟関係上のカリキュラム消化という感じがありありとする。
織部が利休の弟子になったというのはおそらくこの天正13年か、その前年あたりなのではないだろうか?


そして三斎。

三斎が鷺の絵をいつ見に行ったかはっきりしない。
というか、松屋側の自会記がない。

記述がないわけではなく、寛永14年の会記に思い出話があり、そこでは「先年」に行ったと言っている。しかも久好が見せてくれた、と言っている。久好は寛永10年に死んでいるので、おそらくそれ以前だが、織部程昔ではないのかもしれない。
また、「利休に勧められて見に行った」的な事は言っていない。
あんだけ利休LOVEの三斎がそう言っていないという事は、利休は三斎に鷺の絵を見る様指示していないのかもしれない。


で、遠州

遠州は文禄3年に父につれられ見に行っている。この年15才。
それ以後も鷺の絵には御執心で、何回も見に行き、外家をこうしろとか床を替えろとか表装を直せとかうるさく言っていた。
この執心は織部から松屋の鷺の絵の価値を教わっていたからではなかろうか?


こうやってみると、三斎は鷺の絵への執心が薄い気がする。

三斎は利休の弟子で、利休のやりかたを墨守した人。よくそう言われるけど、利休にとって三斎は重要な弟子だったのだろうか?
織部に勧めた様に、利休は三斎に鷺の絵を見ることを勧めたんだろうか?それとも通り一辺倒の名義上の弟子として適当にあしらったのだろうか?