仙叟宗室居士の遺芳7 茶室
慶安四年、仙叟に命じて、その葭島に新たな茶室の造立が計画されたのである。
仙叟は前田利常に出仕早々、茶室の造営を命じられた様である。
とすれば、承応元年の秋までに仙叟が造立した小座敷は、二畳は利休とはいえ、待庵ではなくて聚楽屋敷の二畳に類似したものであり、四畳半も逆勝手ではなく、聚楽屋敷の四畳半に近似したものであったのだろう。
で、作った茶室は聚楽第の利休写し。あとは今日庵を改装した可能性が指摘されている程度。
茶人は最終的に茶室への作意で評価される、と私は思っている。
しかし仙叟は自身の作意を形にはできていないということではないだろうか。
金沢でも自由にやらせてもらったわけでなく、利休の遺芳を提供するハメになっていたわけだし。
宗旦は息子達の「ありつき」…就職活動に必死だった。
つまり、京都に居て、フリーランスの茶の湯の先生をして喰って行く…という選択肢は、この時点ではなかったのだろう。
そして、祿を喰んだものの、二百石という小身ではさすがに茶室を建てるほどの余裕はなかったのかもしれない。