南方録5

○露地ノ出入ハ、客も亭主もゲタヲハクコト、紹鴎ノ定メ也
草木ノ露フカキ所往來スルユヘ、如是、互ニクツノ音、功名不功物ヲキヽシルト云ヽ、カシガマシクナキヤウニ、又サシアシスルヤウニモナクテ、ヲダヤカニ無心ナルガ巧者トシルベシ、得心ノ人ナラデ批判シガタシ、

露地の下駄は紹鴎の決めたルール。
足音で茶人のレベルが判るという。

宗易コノミニテ、コノ比、草履ノウラニ革ヲアテ、
セキダトテ、當津今市町ニテツクラセ、露地ニ用ラルヽ、

そこで利休は雪駄を作った。

此事ヲ問申タレハ、易ノ云、ゲタハクコト今更アシキニハアラズ候ヘトモ、
鴎ノ茶ニモ、易トモニ三人ナラデ、ゲタヲ踏得タルモノナシト鴎モイハレシ也、
今、京・堺・奈良ニカケテ、數十人ノスキ者アレトモ、ゲタヲハク巧者、ワ僧トモニ五人ナラデナシ、コレイツモユヒヲ折コト也、
サレバ得道シタル衆ハ云ニ不及コト也、得心ナキ衆ハ、先々セキダヲハキテ玉ハレカシ、
亭坊別而カシマシサノ物ズキナリト笑ハレシ、

どうしてと聞くと、ちゃんと下駄を履ける者がお前入れて五人ぐらいしかいないじゃん、
できない奴は雪駄履きゃいいんだよ。

…文学として面白いよな。

自分が書いたお茶の覚書を師匠に見せて確認するときの文章じゃない気はするけど。

大抵の茶書が○○ナル時ハ○○スベシ的な文章なのに、南方録は一線を画している。
画し過ぎている。

南方録4

○露地ニ水うつ事、大凡に心得べからず、茶の湯の肝要、たヾこの三炭・三露にあり、
能ゝ巧者ならでハ、會ごとに思ふやうに成がたき也、
大概をいはヾ、客露地入の前一度、中立の前一度、會すミて客たゝるゝ時分一度、都合三度也、
昼、夜、三度の水、すべて意味ふかき事と心得べし。

名前だけ出ている「三炭」とペアの「三露」。

よくよく巧者ならでは、なのだが、客が来る前と中立の前と客の帰る前に一回ずつ水を打つというだけならどの辺が難しいか判りづらい。
水を打つ量なのか音なのか時間なのか乾燥工合なのか、良く考えると明晰ではないが、非常に含蓄深そうではある。

あと、やたら茶の湯のしきたりを深読みする歴史の最初は、この一文にあると言ってもよさそう。

後の水を立水といふ、
宗及などハ、立水心得がたし、何ぞや客をいねといふやういにあしらふ、これいかヾと被申よし、
傳聞、易へ尋申候へば、それ大に本意のちがひ也、
惣而わびの茶の湯、大てい初終の仕廻二時に過べからず、二時を過れば、朝會ハ昼の刻にさハり、昼會ハ夜會にさハる也、
其上、此わび小座敷に、平ぶるまひ、遊興のもてなしのやうに便ゝと居る作法にてなし、後のうすちやすみ時分、水をうたすべし、

宗及「最後の水は帰れって言ってるみたいでいやなんだけど」
利休「帰れって言ってんだよ」

大いに本意違わない。全然否定していないよ。

あと、同時に茶の湯は遊興のもてなしではない、と言っているんだよね。

わびてい主こひ茶のミか、うすちやまで仕廻て、又何事をかいたすべき、客も長物がたりやめて被歸事尤也、
其歸時分なるゆへ、露地をあらため、粗略なきやうに手水鉢にも、又水をたヽへ、草木にも水をうちなどすべし、
客も其ほどを考へて罷立也、亭主露地口まで打送りて暇乞申べき也と被申し、

「客も長物語やめて」…つまり亭主は帰って欲しい側。客は長物語してでも残りたい側。
そういう定義の元、プログレッシブな茶の湯には長物語は必要ない、とばっさり切り捨てているのだ。

つまり茶の湯はもてなしでも、会話を楽しむものでもない。
おそろしくストイックな態度である。

南方録3

第3センテンスは南坊宗啓までの茶人の系譜である。
ざっくり省略して最後の所。

(略)
愚僧モ二代ノ菴主、南ノ坊ト申テ、茶修業ノミノ隱者、大笑ゝゝ、

南方録の「覚書」は、南坊宗啓が茶の湯に関し利休から学んだことを書き記し、
最終的に利休に内容確認してもらった、お茶の本である。
そこに冗談めかした自己紹介を入れる、というのは少々理解できない。

んで第4センテンス。

○客・亭主、互ノ心モチ、イカヤウニ得心シテシカルベキヤト問、易ノ云、
イカニモ互ノ心ニカナフガヨシ、シカレトモカナイタガルハアシゝ、
得道ノ客・亭主ナレバ、ヲノヅカラコゝロヨキモノ也、
未煉ノ人互ニ心ニカナハウトノミスレバ、一方、道ニチガヘバトモ/\ニアヤマチスル也、サレバコソ、カナフハヨシ、カナイタガルハアシゝ

これまた有名な文句である。

上級レベルの人はほっといても心地よい対応ができる。
でも下手同士だと、お互いを心地よくしようとしてとんちんかんな事になってしまう。

…下手な人は下手なこと考えずに自然体にしろ、というアドバイスなんやな。

まぁどうやって上級レベルに達するかの具体性はここにはないけど。

ところで第1センテンス、第2センテンスはひらがななのに、第3センテンス、第4センテンスはなぜかカタカナである。これはどういうことなのだろう?

南方録2

第2センテンス。

○宗易へ茶に參れば、必手水鉢の水を自身手桶にてはこび入らるゝほどに、子細を問候へば、易のいはく、露地にて亭主の初の所作に水を運び、脚も初の所作に手水をつかふ、これ露地・草庵の大本也、

手水鉢の心得え。

利休の茶では亭主が手桶を持って客前へ出、手水鉢に水を入れる。
つまり利休以外はそうではなかった、と言っているわけだ。

此露地に問ひ問ハるゝ人、たがひに世塵のけがれをすゝぐ為の手水ばち也、
寒中にハ其寒をいとハず汲はこび、暑氣にハ清涼を催し、ともに皆奔走の一つ也、
いつ入たりともしれぬ水こゝろよからず、客の目の前にていかにもいさ清く入てよし、

俗世の塵を落すためだから、新しい水が必要。
客前でそれを行う以上、亭主でないといけない、と言っている。

現代では迎付の際、手水鉢に水を入れる水音を聞き、亭主が中潜を出てくるの待つという手続きに変っている。
これは茶庭に中潜りがついてしまい、腰掛と手水鉢の間に仕切りができた影響だと思われる。
実山の時代に中潜りが無かったとは思えないのだが…。

但、宗及の手水鉢のごとく、腰掛につきて、あらば、客來前考へて入べし、
常のごとく露地の中にあるか、玄關ひさしにつきてあるは、腰かけに客入て後、亭主水をはこび入へし、
夫故にこそ、紹鴎已來、手水鉢の水ためは、小手桶一つの水にて、ぞろりとこぼるゝほどの大さに切たるがよきと申也と被答し

亭主が持ち込めるサイズの手桶で注げるほどの穴に留めておくのが手水鉢の上手な作り方だったようだ。

分類草人木や普斎伝書を読めばわかるが、手水は必ず使うものとは限らなかった。
中立までナシってことも有り得た。

もし南方録がなければ、手水は中立の際に汚れた手を洗う為の手洗…そういう認識から離れられなかった可能性がある。

ただし、手水で清めを期待するのはゼンじゃなくてシントイズムだよな。

南方録

何回か扱ったことのある南方録。偽書である、とか、そういったいろいろを忘れて、茶の湯思想書として肯定的に読み直してみる。

当然、覚書から。

○宗易ある時、集雲庵にて茶湯物語ありしに、茶湯は臺子を根本とすることなれども、心の至る所は、草の小座敷にしくことなしと常/\の給ふハ、いか樣の子細か候と申、

宗啓の利休への質問から始まる本書。
この構成がすばらしい。
宗啓が利休にこういった質問ができる人間である、というのが分かる。

内容も濃密である。
書院の茶に対する侘び茶の優越も判れば、侘び茶に対する書院の茶の原理性も判る。
草はいいよね。本来は真が元だけど…と言っているだけなのに。

ここの「心の至る所は」ってのもまた素晴らしい。
この「心の至る所」が、思想書としての南方録を印象づける一言である。
身のカネとかそういう所作のレベルを超え、せせこましいお作法の本でなくしている。
むしろ「五輪書」とかの武術秘伝書に近い気がする。

宗易の云、小座敷の茶の湯は、第一佛法を以て修業得度する事也、家居の結構、食事の珍味を樂とするは俗世の事也、家ハもらぬほど、食事ハ飢えぬほどにてたる事也、是佛の教、茶の湯の本意也、

「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほど」また名文句である。

小座敷は方丈であり、茶の湯を仏門の修業のように扱い、見世物めいた茶の湯を明確に排除している。

ただこれが宗啓の「台子が根本」という質問への回答になっているかはちょっと疑問があるが。

水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてゝ、佛にそなへ、人にもほどこし、吾ものむ、花をたて香をたく、ミな/\佛祖の行ひのあとを學ぶ也、
なを委しくハわ僧の明めにあるべしとの給ふ、

仏道の修業というより、方丈での出家生活のような茶の湯。水を運び/湯をわかし、で後の三炭三露あたりへの伏線にもなっている。

「わ僧の明めにあるべし」というフレーズのいやったらしさを消すだけの爽やかさがこの文にはあると思う。

実山の動機

南方録には、大別して三つの位置付けがある、と私は考えている。

  1. 実山が入手した真の利休茶書である。
  2. 実山かその周辺が書いた偽書である。
  3. 誰かが書いた偽書で、実山はだまされたのである。

場合分けとしてはこんなもんであろう。

九州の事蹟が多いなどの理由で、私は実山の周辺が書いた偽書であると思っている。


んで、ここで疑問なのは「実山はどうしたかったのか」である。

実山はこの本を出版していない。
それどころか極めて限定的にしか写本を許していない。
しかも写本先は身内で、写本の許可に大枚を積ませるというビジネスでもなさそう。
南方録に載っていたいくつかの茶道具を実山も持っていたが、生前売ってはいない。
つまり金儲けが目的ではないだろうと思う。

実山は利休の茶書、という権威を得て、福岡藩を牛耳ろうとした?
でもすでに寵臣という最高の権威を持ってるし、その上で織部流の人間に陰口叩かれるという、むしろ弱点になっている。

実山の行動からは、南方録を利休の茶書として崇め大切に守ろうとしたという方向の行動しか見えない。

実山は実山周辺の誰かが書いた偽書に騙された、善意の人間だったんじゃなかろうか?

南方録と立花実山11

「南方録」は実山の編集あるいは著作ではないかといわれながらも、それを直接的に裏づける資料は未だ見つかっていない。
しかし実山の死より四、五十年後の福岡の茶人許斐積翠が著した「南派茶伝集」の中に次のような史料を見つけることができた。

実(山)公在世の時より、古織(古田織部流茶道)のともから此流派をそしりて、南(方)録一部古書にあらす、実(山)公述作の由風聞有けるを、黒田一貫居士伝へ聞て申されけるは、其そしる人々は此の一部を熟覧なく、只風説をのみ信する輩なるへし。
かく斗の全部いかに云とも実山が分際には及まし。
よしさもあれはあれ、此全部実山か作せるほどの実山ならは利休の再来なるへし。

黒田一貫は実山の茶友である。

南方録は実山生前から、偽書の噂が流れていた。
なるほど岐路弁疑を書くわけだ。

んで実山の茶友が「実山には無理じゃね?もしあんだけ書けたら実山が利休の再来でいいんじゃね」と回答したと。


我々が知る利休の言葉の多くは南方録によるものだ。
特に哲学的な奴はだいたいそう。
茶話指月集とかだけで利休像を構成するとへんくつ親父にしかならない。

だが、この茶聖利休は南方録の造り上げたもので、ほんものはこんな聖人ではない「かも」しれない。

そういう意味で南方録の著者…実山かどうかは分からないそいつは、利休の再来でいいんじゃないだろうか。
そもそも我々の思う利休を生み出したのが南方録の著者なのだと思う。